今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「俺は頭が良くない。だから、人が一する時は二倍、二する時は四倍必ず努力してきた」
--辰野金吾
辰野金吾は、幕末の嘉永7年(1854)、肥前の国(現・佐賀県)唐津の城下に生まれた。
帝国大学工部大学校(現・東京大学工学部)でコンドルに学び、工部省派遣留学生としての4年間の英国・欧州留学を経て、母校の教授となり、明治日本の建築界に君臨していく。
掲出のことばは、その辰野金吾が息子の辰野隆(ゆたか)に、おまえもそうするようにという訓えの意味を含めて、繰り返し語ったことば。のちに仏文学者となった辰野隆は、自身の息子の明にも、同じことを語り聞かせたという。
実は夏目漱石も、一時、建築家を志望しようとしたことがある。一高を卒業して大学へ進む折、専攻を選ぶ必要性から、将来どんな職業につこうかと考え、建築家がひとつの候補として頭に浮かんだのである。結局、友人・米山保三郎のアドバイスで建築でなく英文学を専攻した。もし米山のアドバイスがなければ、漱石は辰野金吾のもとで学ぶことになっていた。
辰野金吾は、「建築家として生まれたからには、東京に建物を三つ建てたい」と周囲によく語っていたという。その3つとは、日本銀行と東京駅、そして議院(国会議事堂)。このことは即ち、彼が東京という新時代の都を自分のものとすることだった。
実際、日本銀行本店と東京駅をつくり、議院の建築にも取り組もうとしていた矢先に病、倒れた。死の間際、失いかけた意識の中で、「たてから見てもよし、横から見てもよし」と呟き微笑したのは、朦朧とした夢見心地の頭の中で、自身の目標を達成していたからなのだろう。
東大名誉教授で建築史家の藤森照信さんは、その著『近代日本の洋風建築 開化篇』の中にこう綴っている。
「恐らく、最後の心象の中に、議院は立っていたのであろう。辰野は、都を自分のものとした」
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。