「オール読物」新人賞の受賞から2年後の昭和48年7月、藤沢周平は『暗殺の年輪』で第69回直木賞を受賞した。45歳だった。
山形県鶴岡市の病院に入院中のひとりの主婦が、ラジオでこのニュースに接した。新直木賞作家の本名が「小菅留治」であることを聞き、感動した主婦は、翌朝の新聞に載った住所を頼りに手紙を書いた。
「おめでとうございます。私は旧姓・尾形ですが、分かりますか」
しばらく後、主婦のもとに返書が届く。
「小さく、卵形の顔でほっぺたが赤く、なにか私にいわれても、下を向いてしまって、なかなか答えてくれない。その子が尾形和子だと思いますが、違いますか」
主婦は、周平の中学教員時代の教え子だった。病によって教職を離れ20余年の歳月が過ぎてなお、周平は、故郷・山形の教え子たち一人一人の顔と声を鮮明に胸に刻んでいたのだった。周平の人間性を浮き彫りにする逸話であろう。
思えば、周平は、作品の中でも、つねに市井に生きる人々へ温かな眼差しを注いだ。武家社会を題材にしても、好んで描くのは英雄豪傑でなく、しがない浪人者や薄禄の下級武士であった。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
※本記事は「まいにちサライ」2011年3月19日の掲載分を転載したものです。