文/鈴木拓也
最近はまた江戸ブームが再燃したのか、江戸時代のトリビアを満載した書籍が、矢継ぎ早に刊行されている。中でも興味深いのが『江戸の家計簿』(磯田道史著、宝島社新書)である。
磯田氏は本書で、江戸時代の諸物価や職業ごとの年収などを、現在の貨幣価値に換算して解説しているのだが、この時代の社会の異なる側面が垣間見えて面白い。
ただ面白いだけではない。本書を通読したうえで藤沢周平などの時代小説を再読すれば、今までは気に留まらなかった叙述やエピソードの背景にあらたな関心がわいて、ちょっと得した気分になれる。
例えばこんなふうに……。
■清兵衛が、町医者に払った薬代は?
藤沢周平の代表作の一つであり、映画にもなった『たそがれ清兵衛』。主人公の井口清兵衛は、たそがれ時の退勤時間になると誰よりも真っ先に下城するため、「たそがれ清兵衛」とあだ名を付けられている。定時になるといそいそと帰るのは、労咳(結核)にかかって床に伏す妻の看病のためである。
清兵衛は、垢じみた同じ衣服を毎日着て、内職の虫かご作りに精を出しているが、これは町医者に払う診療代がかさむせい。当時の医者の資格は免許制でなく、そう名乗ればだれでも医者として開業できた。だからその質はまちまち。実力のある藩医もいれば、悪評ふんぷんの町医者もいた。
そんな医者に支払う報酬額(薬礼)も一定しておらず、1回あたりの薬礼は、今の貨幣価値で1,000円~2,500円の幅があったという。
清兵衛は、藪医者と疑いつつ町医の久米六庵を呼んでいたが、それは薬礼が安かったからと思われる。そのため上意討ちを頼まれた際に、辻道玄という名医に診てもらうことを条件として、頼みを承諾したのだろう。おそらく久米六庵の薬礼は今のお金で1,000円、辻道玄は2,500円クラスであったと推察される。
■『思い違い』の源作の年収「二十両」は何円?
短編集『橋ものがたり』に収録されている短編『思い違い』では、指物師の豊治に奉公する源作という23歳の青年が登場する。
源作は、おゆうという名の女に一目惚れするが、おゆうは「二十両」の借金を払うため女郎屋の遊女になっていた。源作は、おゆうを請け出すため、頭の中で算段をする。「二十両といえば一年分の手間賃だ」。さて「二十両」は現代に置き換えるといくらだろうか?
『江戸の家計簿』では、1両とは米1石(180リットル)を買えるぐらいだという。そのまま現代に当てはめると5~6万円になるが、磯田氏によれば、江戸時代の米の価値はもっと高く30万円ぐらいと考えるべきだとする。となると、源作の年収は今なら600万円となり、年齢からすればかなりの高給取りになる。
実は火事の多かった江戸では、街並みの再興を担う大工や左官の賃金は高かった。また家具を作る指物師も、建築職人ほどでなかったにせよ、結構な年収があったと考えられる。
それでも弟子扱いの源作が600万円というのは高すぎるが、彼は親方の豊治から一目置かれる腕前を持ち、豊治は娘のおきくを嫁がせて、後継ぎにする心づもりだった。その点を考え合わせると、源作の年収の高さが納得のゆくものになってくる。
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このように江戸時代の物価情勢を知ったうえで藤沢周平の時代小説を読むと、今まで見えなかったものが見えてくる。時代小説を二度楽しみたい方におすすめの一冊である。
【時代小説を深読みできるようになる一冊】
『江戸の家計簿』
(磯田道史著、宝島社新書)
http://tkj.jp/book/?cd=02633601
文/鈴木拓也
2016年に札幌の翻訳会社役員を退任後、函館へ移住しフリーライター兼翻訳者となる。江戸時代の随筆と現代ミステリ小説をこよなく愛する、健康オタクにして旅好き。