平和が続いてほころびが……
A:ドラマの時代考証を務められている倉本一宏先生の『藤原伊周・隆家:禍福は糾へる纏のごとし』(ミネルヴァ日本評伝選)を参照すると、大宰府政庁から対馬・壱岐の被害、船の大きさ、艘数などを記した第一報を伝える飛駅使が出立したのは4月7日。それが京に届いたのが4月17日。
I:10日くらいかかっているのですね。
A:ちょっとあれ? と感じたのは、『道路の日本史 – 古代駅路から高速道路へ』(武部健一著/中公新書)には、承和6年(839)に最後の遣唐使が無事に帰国した報告を大宰府から京に発した際に7日の日数を要したことが記されていることです。刀伊の入寇は外国勢力から攻められたということで、国家の一大事。その知らせが、180年ほど前の遣唐使帰国報告より遅れるとはどういうことだろうと。
I:きっと律令国家が積み上げてきた体制にほころびが生じていたということではないでしょうか。そんなに緊急に知らせることもない平和な日々が続いていたのでしょう。
A:いずれにしても、刀伊の入寇に関しては、大宰府からの使者が京に到着するまでには10日前後かかりました。今日の情報化社会の中ではちょっと考えられないことですが、京にもたらされる「最新情報」も10日ほど前の情報にすぎません。
I:まるで天文学のようですね。今観測できる星の輝きは、過去のもののような……。
A:天文学は言い過ぎですが……何億光年ですよね??? 朝鮮半島を舞台に日本と百済の連合軍が唐・新羅の連合軍と戦った白村江の戦いからおよそ350年、平将門や藤原純友の乱からもおよそ85年。合戦のない日々は永遠に続くと思っていた貴族が多かったのはないかとにらんでいます。ところが意外なところから思わぬ大軍が押し寄せてきたのが刀伊の入寇です。この時日本を襲って来たのは女真族といわれています。後に金や清国を樹立する人々ですね。
I:多くの犠牲者が出ましたが、刀伊の人々が大陸に戻っていってくれたのは不幸中の幸いでした。
【事件は大宰府でおきている。次ページに続きます】