はじめに-刀伊の入寇とはどのような事件だったのか
「刀伊の入寇(とういのにゅうこう)」は、寛仁3年(1019)に起きた平安時代中期の外敵侵入事件のことです。刀伊とは、高麗で「夷狄(いてき)」を意味する言葉で、日本では主に女真族(じょしんぞく)を指します。
この女真族が、日本の対馬(つしま)、壱岐(いき)、そして北九州の筑前国(ちくぜんのくに)に大規模な襲撃を行い、多くの被害をもたらしました。
目次
はじめに-刀伊の入寇とはどのような事件だったのか
刀伊の入寇はなぜ起こったのか
関わった人物
この事件の内容と結果
「刀伊の入寇」その後
まとめ
刀伊の入寇はなぜ起こったのか
女真族は、現在の中国東北部やロシア沿海州付近に居住していたツングース系の民族のことで、狩猟や牧畜を主な生業としていました。彼らは海上を移動し、高麗の北辺を度々襲撃していました。
寛仁3年(1019)3月、女真族の一団が高麗を襲撃した後、50余隻の船団で日本へと向かったのです。彼らが日本を襲撃した理由については定かではありませんが、高麗での略奪の延長線上で、日本にも侵入したと考えられています。
関わった人物
ここでは、「刀伊の入寇」に直接的に関わった主な人物について紹介しましょう。
藤原隆家(ふじわらのたかいえ)
藤原道隆の四男で、大宰府権帥(だざいのごんのそち)として現地の防衛を指揮しました。彼の迅速な対応と指揮力により、女真族の撃退に成功しました。
藤原理忠(ふじわらのまさただ)
壱岐守(いきのかみ)として壱岐の防衛にあたりましたが、女真族の襲撃により命を落としました。
【この事件の内容と結果。次ページに続きます】