
小泉セツ&小泉八雲の夫婦がモデルとなった朝の連続テレビ小説『ばけばけ』が注目されています。実はその小泉夫妻と、明治の文豪・夏目漱石と妻・鏡子は、不思議と重なり合う縁で結ばれていた、というのをご存じでしょうか。
夏目漱石の研究家として知られ、『心を癒す漱石の手紙』などの著書を持つ、作家で雑誌編集記者の矢島裕紀彦さんによると、二人の文豪とその妻たちには奇縁と呼ぶしかないような不思議なつながりがあると言います。
多数の文献や手記を紐解きながら、二組の夫婦の知られざる素顔を全26回の連載にて紹介します。
第17回では、なぜか二人とも熊本を嫌っていたというエピソードをご紹介します。西洋よりも熊本を嫌がっていた節のある漱石、その町並みを嫌悪しながらも心身ともに回復させた八雲。こんなところにも二人の共通点が見出せます。
文・矢島裕紀彦
ロンドンよりも嫌いだった? 漱石の熊本への思いとは!?

夏目漱石のことを語るとき、よく引き合いに出される言葉に、
倫敦に住み暮らしたる二年は尤(もっと)も不愉快の二年なり
というものがある。漱石の著作『文学論』の序に書かれている言葉である。
これをもって、漱石は徹底した西洋嫌いだったと評されたりすることもあるが、その少しあとに
帰朝後の三年有半も亦(また)不愉快の三年有半なり
と書いてあるのは、意外に見逃されているような気がする。ロンドン留学中の漱石は、留学期間を延長してフランスで学び続けたいと、本気で文部省に働きかけてもいた。徹底的な「西洋嫌い」のすることではない。
漱石は薄っぺらで無批判な西洋礼賛を戒める一方で、ロンドン在留時には、本場でモノがしっかりしているからとオーダーメイドの洋服を仕立ててもいる。日本で留守をまもる鏡子宛ての手紙に漱石は書いている。
男子の洋服は「パリス」よりも倫敦がよろしき由(よし)成程(なるほど)結構に候
小生も当地にて「フロツク」と燕尾服を作り候(明治34年1月22日付)
資料を精査していくと、漱石が利用したのは、大英博物館前の一流のオーダーメイドのテーラー「プリッチェット(Pritcett)」だったと推察できる。漱石はこの店で、袖口の広さなど、あれこれの注文をつけながら服を仕立てた。鏡子への手紙に
日蔭町の如き所故(ところゆえ)無論極(ごく)粗末なものに候
と言い訳めいた言葉を追記したのは、「贅沢」と叱られないよう予防線を張ったのだろう。漱石は前年の10月31日、勉強のためヘイマーケット座で観劇した。そのとき、自分はジャケットを着ていたが、周囲の観客がみな燕尾服を身につけていて気恥ずかしい思いをした。どうやらこの体験が漱石の足をテーラーへ向けさせたように、私には思える。あるいはまた、松江の小泉八雲が紋付き羽織袴姿の正装で年始まわりをしたのと似たような感情を、漱石の中に見ることもできるのかもしれない。
この頃、留守宅の鏡子が着るものにも困りはじめていることを、漱石は知らない。鏡子は自分の着物は着破ってしまって、漱石のなけなしの大島紬を引っぱり出して仕立て直して着ている。それも着た切り雀でいるうち、やがて穴が開いてしまうといった窮状に陥っていくことを、漱石は想像だにしていない。実家である中根家の離れに間借りしているから、いざとなれば、中根の父が助けてくれるものと、鏡子も漱石も秘かに頼りにしていたのが、当の中根重一は政変のあおりで貴族院書記官長の職を解かれた上、内緒で相場に手を出して失敗し泥沼にはまり、娘に援助の手を差し伸べるどころではなくなっていた。
話が少し横道にそれた。
漱石がロンドンから友人の菅虎雄あてに出した手紙には、こんな一文も見られる。
帰つて教師なんかするのは厭でたまらない況(いわ)んや熊本迄帰るに於てをや夫(それ)を考へると英国に生涯居る方が気楽でよろしい(明治35年2月16日付)
これではまるで、「尤も不愉快」だったロンドンの暮らしより、熊本での生活を嫌がっているようにも聞こえるが、漱石の胸の底にあったのは生まれ育った東京への「郷愁」だったように思える。
漱石は大学卒業後、東京高等師範学校の教壇に立ちつつ大学院で学問を続けていたが、明治28年(1895)に松山へ。そこで1年間、中学の英語教師をつとめたあと、熊本へ移って五高の英語教師となり、そこから2年間のロンドン留学。計7年近い「異郷」での暮らしに倦み疲れ、東京へ帰りたい思いが抑えようもなく募っていたのだろう。そこには、当然のこととして、妻・鏡子の思いも重なっている。
ロンドンから鏡子宛てに出した次のような手紙の一節にも、当時の状況や漱石の心持ちが覗き見える。
先週桜井氏より手紙参り候其前桜井氏宛にて留学延期(仏国へ)の件
周旋頼み置候処(ところ)延期は文部省にて一切聞き届けぬ由につき泣寝入に候
帰朝後は東京に居り度(たし)と思へど此様子では熊本へ帰らねばならぬかも知れぬ
御前も其覚悟をして居るがいゝ(明治34年9月22日付)
なお、手紙文中の「桜井氏」は、熊本五高校長の桜井房記。漱石に「謡」という趣味を授けた人でもある。ロンドンへ向かう途次、折から万博開催中のパリに立ち寄ったときの手紙に、漱石は
言語ノ通ジヌ容子ノ分ラヌ所程不便ナモノハ無之(これなく)意外ノ失策ナク「パリス」迄参候が不思議ニ候
此位ナラ謡ヲヤラズ仏語ヲ勉強スレバ善カツタ今更不覚ヲ後悔致候(明治33年10月23日付、鏡子宛て)
と書いたが、結局、帰国後、謡は晩年まで漱石の趣味となった。
英国留学から帰った漱石は、熊本五高を辞任するために、なんと、医師の診断書まで提出している。その作成を菅虎雄に仲介してもらおうと、こんな手紙を書いている。
小生熊本の方愈(いよいよ)辞職と事きまり候に就ては医師の珍断書入用との事に有之(これあり)候へども知人中に医者の知己無之(これなく)大兄より呉秀三君に小生が神経衰弱なる旨の珍断書を書て呉る様依頼して被下間舗(くださるまじく)候や
小生は一度倫敦にて面会致候事あれど君程懇意ならず鳥渡(ちょっと)ぢかにたのみにくし何分よろしく願上候(明治36年3月9日付)
書簡文中の「珍断書」は、これまで『漱石全集』などでは「診断書」の書き違いとされてきた。が、斜(はす)な目線で眺めると、これは、漱石が親しい友人の菅虎雄あてに戯れ半分にわざとそう書いたか、あるいは無意識のうちに漱石の本音がこぼれ出たものと感じられなくもない。
このとき漱石が求めていたのは、医師の正確な診断書ではない。それが証拠に、このとき漱石は診察は希望していない。「患者は神経衰弱のため熊本で仕事を続けることには耐えられず、生まれ育った東京に転任させるしかない」という内容を無理にも書き込んだ診断書がほしい。文面から推して、漱石本人から五高側へは、すでに同様の主旨を申し伝えていて、その裏書きが必要だったことが窺えるのである。
シャレ好きの漱石はそんな診断書をあえて「珍断書」と記した(あるいは、つい記してしまった)。私には、そんなふうに思えるのである。
漱石は他にも、門弟あての手紙で医学的知識をひけらかして「阿矢仕(あやし)医学博士」と名乗ってみたり、自筆の絵を描いた手製絵葉書の片隅に《名画なる故三尺以内に近付くべからず》と書き添えてみたり、弓道を始めて《的は矢の行く先と心得候へば何時でも仇矢は無之(これなく)真に名人と自ら誇り居候》と胸をそらしてみたり、ユーモアに満ちた手紙の数々をしたためているのだ。
月並みで中途半端と評しながらも、八雲はその精神性に日本の未来を見た!?

小泉八雲も「熊本嫌い」を表明していた。
八雲は松江での幸福感に満ちた1年3か月の暮らしのあと、明治24年(1891)11月に熊本へ移り住んだ。アメリカ南部、熱帯地方の生活に馴れていた八雲にとって、松江の寒さは健康を損なうほど身にこたえた。松江の魅力に後ろ髪引かれながらも、もう少し温暖な地で暮らしたかった。
もうひとつ、八雲に熊本行きを促した理由があった。セツとの結婚で、その養父母や養祖父も含めた大家族を養うこととなり、そのためには熊本五高から提示された月給200円の条件がありがたかったのだ。これは松江で島根県尋常中学と師範学校からもらっていた俸給の倍額だった。
だが、実際に熊本に赴任してみると、八雲は愕然とした。数か月後、友人ヘンドリックにあてた手紙に、八雲はこう書いている。
この町は、どうしようもなく(悪魔のしわざではないかと思うくらいに)醜く、月並みだ。巨大で、中途半端に西洋化された、軍人だらけの兵舎の町だ。
当時の熊本は、西南の役の爪痕の残る焼け野原に、巨大な軍隊が駐屯する陰鬱な日本有数の軍都だった。焼け落ちた熊本城址に第6師団が駐屯し、神社仏閣にまで富国強兵策や戦勝祈願が暗い影を落としつつあった。「古きよき日本」の情緒にあふれる松江とは余りにかけ離れたその姿に、八雲は強い違和感を持ったに違いない。
だが、3年間の熊本生活で、表面的な「熊本嫌い」とは裏腹に、八雲は健康を回復。元会津藩士の漢文教師・秋月胤永や講道館柔道の創始者でもある校長・嘉納治五郎と身近に接しつつ内省の時を持ち、日本人の精神性を見つめ直し、日本認識を深めていったことも忘れてはならないだろう。『東の国から』に収められる一篇『柔術』が書かれるのも、校長の嘉納や教師・有馬純臣(柔道4段)との出逢いに依る。
八雲は松江の西田千太郎宛てに、こんな手紙を書いている。
セツは熊本でいくつかのよいものを発見しました。彼女は、百姓、小さい商店経営者、行商人及び商人もまた、非常に正直で、実直だと言います。これは九州人が自ら抱いている意見――粗野ではあるが、正直である――をますます強固にするでしょう。あなたは九州を非常によく思っておられるので、私は九州に関してできる限り、よいところを見つけようと思います。(明治26年8月16日付)
また、明治27年(1894)1月に実施した「極東の将来」と題する講演で、八雲は語っている。
将来、日本が偉大な国になるかどうかは、――九州魂あるいは熊本魂――すなわち素朴、善良、質素なものを愛して、生活での無用な贅沢と浪費を嫌悪する心を、いかにして持ち続けるかどうかにかかっている。
* * *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com
(この連載を通しての主な参考文献)
『漱石全集』全28巻、別巻1(岩波書店、1993~1999年)/夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫、1994年)/夏目伸六『父・夏目漱石』(文春文庫、1991年)/夏目伸六『父・漱石とその周辺』(芳賀書店、1967年)/高浜虚子『回想子規・漱石』(岩波文庫、2002年)/松岡陽子マックレイン『漱石夫妻 愛のかたち』(朝日新書、2007年)/荒正人『増補改訂漱石研究年表』(集英社、1984年)/江藤淳『漱石とその時代』第1部~5部(新潮新書、1970~1999年)/『新潮日本文学アルバム夏目漱石』(新潮社、1983年)/『別冊國文学 夏目漱石事典』(学燈社、1990年)/『夏目漱石の美術世界』(東京新聞、NHKプロモーション、2013年)/出久根達郎『漱石先生とスポーツ』(朝日新聞社、2000年)/江戸東京博物館・東北大学編『文豪・夏目漱石』(朝日新聞社、2007年)/平岡敏夫『「坊つちやん」の世界』(塙新書、1992年)/恒松郁生『漱石 個人主義へ』(雄山閣、2015年)/小泉節子、小泉一雄『小泉八雲 思い出の記 父「八雲」を憶う』(恒文社、1976年)/小泉八雲、平井呈一訳『日本瞥見記』上・下(恒文社、1975年)/小泉八雲、平井呈一訳『東の国から・心』(恒文社、1975年)/小泉八雲、平川祐弘編『怪談・奇談』(講談社学術文庫、1990年)/小泉八雲、池田雅之編訳『虫の音楽家』(ちくま文庫、2005年)/『明治文学全集48 小泉八雲集』(筑摩書房、1970年)/小泉時共編『文学アルバム小泉八雲』(恒文社、2000年)/小泉凡監修『小泉八雲、開かれた精神の航跡。』(小泉八雲記念館、2016年)/池田雅之監修『別冊太陽 小泉八雲』(平凡社、2022年)/池田雅之『小泉八雲』(角川ソフィア文庫、2021年)/田部隆次『小泉八雲』(北星社、1980年)/長谷川洋二『八雲の妻』(今井書店、2014年)/関田かをる『小泉八雲と早稲田大学』(恒文社、1999年)/梶谷泰之『へるん先生生活記』(恒文社、1998年)/池野誠『松江の小泉八雲』(山陰中央新報社、1980年)/工藤美代子『神々の国』(集英社、2003年)/工藤美代子『夢の途上』(集英社、1997年)/工藤美代子『聖霊の島』(集英社、1999年)/平川祐弘編『小泉八雲回想と研究』(講談社、1992年)/平川祐弘『世界の中のラフカディオ・ハーン』(河出書房新社、1994年)/熊本大学小泉八雲研究会『ラフカディオ・ハーン再考』(恒文社、1993年)/西川盛雄『ラフカディオ・ハーン』(九州大学出版会、2005年)/西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳、語る女たち』(洛北出版、2024年)/池田雅之『日本の面影』(NHK出版、2016年)/ラフカディオ・ハーン『小泉八雲東大講義録』(KADOKAWA、2019年)/芦原伸『へるん先生の汽車旅行』(集英社インターナショナル、2014年)/嵐山光三郎『文人暴食』(新潮文庫、2006年)/河東碧梧桐『子規を語る』(岩波文庫、2002年)/『正岡子規の世界』(松山市立子規記念博物館、1994年)/『子規全集』18巻、19巻(講談社、1979年)/『志賀直哉全集』第8巻(岩波書店、1999年)/『芥川龍之介全集』第4巻(岩波書店、1996年)/瀬沼茂樹『評伝島崎藤村』(筑摩書房、1981年)/矢島裕紀彦『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫、2009年)/矢島裕紀彦『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(NHK生活人新書、2003年)/矢島裕紀彦『文士が愛した町を歩く』(NHK生活人新書、2005年)/矢島裕紀彦『文士の逸品』(文春ネスコ、2001年)











