はじめに-豊臣秀吉の「唐入り」とはどんな戦いだったのか
「唐入り」とは、豊臣秀吉が明征服を目指して朝鮮に侵略した戦争のことです。文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけて、行なわれました。秀吉は「唐入り」と呼んでいたそうです。江戸時代に入ると「征韓」、「朝鮮征伐」と呼ぶようになり、今日では「文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)」、「朝鮮出兵」、「秀吉の朝鮮侵略」などと呼ばれています。
本記事では、「豊臣秀吉の唐入り」について、徳川家康の動きにも着目しながら解説していきます。
目次
はじめに-豊臣秀吉の「唐入り」とはどんな戦いだったのか
「唐入り」はなぜ起こったのか
関わった人物
この戦いの内容と結果
「唐入り」、その後
まとめ
「唐入り」はなぜ起こったのか
秀吉が唐入りの意志を公表したと言われているのは、天正13年(1585)関白に就任した直後の9月。その後、天正15年(1587)に秀吉が九州を征服したことによって、話は具体化していきました。この頃から、「高麗・南蛮・大唐まで従える」と発言するようにもなっています。
こうした背景には諸説ありますが、その中の一つとして、秀吉が領土拡張を求めたことが挙げられるでしょう。天下統一後、家臣に知行地を与えるには、直轄領を割くしかなく限界があったのです。唐入りの準備過程は、太閤検地の施行過程と対応しています。そうした動きを考えると、天下統一の延長上に唐入りがあったと考えられるでしょう。
一方で、東アジアの情勢も見逃せません。この頃、ポルトガルをはじめとする南蛮諸国の貿易船が東アジアに進出し、明がおさえていた東アジアの通行関係が崩れたのです。このことにより、明の地位は低下していました。こうした情勢も、「唐入り」を行なうことを決めた要因の一つだったと言えるでしょう。
関わった人物
次に、唐入りにおける主要な人物について紹介します。
豊臣秀吉
関白にまで上り詰め、天下統一を果たした最高実力者。対外侵略へと動き出す。
徳川家康
文禄の役では、秀吉の命により参陣。渡海はしなかったが、肥前名護屋に在陣した。
小西行長
唐入りの一番隊隊長。女婿・宗義智(そう・よしとし)とともに釜山城を陥れ、平壌を陥落させる。
石田三成
船奉行として渡航部隊の輸送に当たる。碧蹄館(へきていかん)の戦いでは、小早川隆景らとともに明軍と交戦。その後、戦況を見極めながら、明軍との和平交渉を進める。
加藤清正
朝鮮の王子2人・臨海君(りんかいくん)・順和君(じゅんなくん)を捕虜にすることに成功。国境を越えてオランカ(現ロシア領)にまで進撃する。その後、和平交渉が進み、主戦派だった清正は孤立する。
この戦いの内容と結果
唐入りのための軍事動員の指令は、天正19年(1591)9月に発せられました。秀吉の命令に従い、諸大名は肥前・名護屋に参陣します。
天正20年(1592)3月、秀吉は実に16万の兵力を渡航させました(文禄の役)。4月13日には、一番隊の小西行長と宗義智は釜山城を陥れます。その1か月後には都漢城(ソウル)を陥落させ、朝鮮国王は逃亡しました。
都陥落の報告を受けた秀吉は、関白・秀次に日本・朝鮮・中国にまたがる国割構想を示したと言います。その内容は、「後陽成天皇を北京に移し、その関白を秀次にする。秀吉は日明貿易の港・寧波(ニンポー)を拠点とし、朝鮮は羽柴秀勝か宇喜多秀家に与える」などというものだったそうです。
漢城を陥した後、宇喜多秀家、小早川隆景、毛利輝元、黒田長政、加藤清正、福島正則などがそれぞれ部将として、朝鮮全域に侵入。明征服のための足場を固めようとしていたのです。
同時期、秀吉は自ら朝鮮へ渡ろうとしたとか。しかし、家康らが引き止めたと言います。代わりに、石田三成が朝鮮奉行として渡海し、諸大名の指揮をしました。
【明軍が朝鮮を救援、戦局が変わる。次ページに続きます】