この事件の内容と結果
寛仁3年(1019)3月、女真族は50余隻の船に分乗し、まず対馬を襲撃しました。続いて壱岐に上陸し、多くの住民を殺害・拉致しました。壱岐では藤原理忠以下、多数の人々が犠牲となり、生存者はわずか35人だったと伝えられています。
その後、女真族は筑前国の怡土郡(いとぐん)、志摩郡(しまぐん)、早良郡(さわらぐん)にも侵入し、家屋の焼き討ちや略奪を行いました。
これに対し、大宰府の藤原隆家は迅速に対応。京へ飛駅 (ひえき) 使を立てて通報する一方で、官人や現地の武士たちを動員し、防衛体制を整えました。激しい戦闘の末、ほぼ1週間で女真族は撃退され、日本から退散しました。
活躍した大宰府軍の主力は、現地の武士的豪族の兵力であったと考えられています。これら豪族の多くは、大宰府や国衙(こくが)等の官人の肩書を有していました。隆家の剛毅な性格が、こうした豪族たちを心服させたのでしょう。それを示すものとして、後世九州の有力武士は隆家の子孫と称すものが多いことが挙げられます。
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