松本明慶(仏師)
─運慶・快慶の流れを汲む「慶派」の継承者として仏像を彫り続ける─
「人の心の中には仏と鬼が住んでいる。自分を誤魔化さず、鬼の如く専心したい」
──20体目の大仏を制作中です。
「この不動明王坐像(上画像)に取りかかったのは、かれこれ7年前。完成まであと数年はかかりそうです。今、日本で定期的に大仏を造ることができるのは、うちの工房だけでしょう。彫る技術があるだけでは、大仏は造れんのです」
──どういうことでしょう。
「まず、それに相応しい木が必要です。大仏を造ることが決まってから木を探したんでは、間に合いません。少なくとも伐り出してから10年以上乾燥させないと、使いもんにならんのです。30年以上前の木を用いることもざらだから、いい木が出たと耳にしたら、自分で見にいって、丸太を買って製材し、保存しておく。彫るあてがなくても買う。こんなことをする仏師は、他におらんでしょう(笑)」
──木像の大仏ではかなりの大きさです。
「高さ10mはありますからね。造る場所も大切なんです。私たちの工房は、鉄パイプとトタンでできていますが、みんな自分たちで組みました。普通よりも多くの鉄パイプで格子に組んでいますので、台風が来てもびくともしません。この鉄パイプに登って作業することもありますし、クレーンを使った上げ下ろしもできます」
──大仏の設計図はあるのですか。
「木像の大仏は、複数の木を組み合わせる寄木造です。最初に10分の1程度の大きさの精巧な模型を造り、それをもとに、どの木のどの部分をどのくらい使うのか、見極めていく」
──まず、木を見る。
「同じ木でも、ひとつひとつ違いますから、“表情”が異なるんです。これは、小さな仏像を一木造(いちぼくづくり)で造る時も同じです。木が、何をどう彫ればいいか教えてくれる」
──木が教えてくれる。
「木にはね、仏さんが住んでいらっしゃるんです。木を見ると、何を彫ればええか見えてくる。例えば、新潟県中越地震(平成16年)がありましたでしょ。あの時、地震で倒れた樹齢180年の杉の木が3本、工房に持ち込まれました。“これで慰霊の像を彫ってほしい”との山古志村(現長岡市)からの依頼でした。木を見るとね、お地蔵さんがいらっしゃる。彫り出してくれとおっしゃる。この木から9体のお地蔵さんが生まれました」
「過去を振り返る暇はない。ひたすら前だけを見て生きる」
──そもそもなぜ仏師になったのですか。
「4つ違いの弟が突然亡くなったことが、きっかけといえるかもしれません」
──詳しく教えてください。
「弟は幼い頃から心臓が弱かったんです。ある時、入院したら、その後にあっけなく死んでしまった。私が17歳の時のことです。当時、何らかの医療ミスがあったのではないか、と指摘する人もたくさんいました。このことがあり、私の心の中の何かが弾けてしまった。それからです、仏像の彫刻を始めたのは」
──不幸な死がきっかけに。
「母親は毎日泣いているし、弟は戻ってこない。この世に仏なんておるんか、という思いでした。仏ってなんや、と木に気持ちをぶつけたんです。もちろん我流です。木を拾ってきては削り、挙げ句には廃材の電柱や父親の下駄も、仏像に彫りました。高校を卒業してからはアルバイトをしながら、余った時間のすべてを仏像彫刻に捧げました。
2年ほど彫り続けたでしょうか。自分の部屋は300体ほどの仏像で埋め尽くされました。そんな私を案じてくれたのでしょう。高校時代の美術教師がいろいろと心配してくれましてね。そこからさまざまな伝手が奇跡のように繋がり、私は慶派最後の京仏師・野崎宗慶師に弟子入りすることが叶いました」
── 運慶・快慶のあの「慶派」に。
「ええ、その最後の継承者といわれていた方です。当時82歳で、私がふたり目の弟子でした。初めてお目にかかった時、私の拙い仏像を一体手に取って、掌でころころと回しながら、にっこりと微笑んでくれました。入門が許された瞬間でした。私はこの日から、毎日師の元へ通うことになりました」
──どんな教えを受けたのでしょう。
「師は“この時を待っていた。お前にあげよう”と繰り返しおっしゃいました。亡くなるまでの1年半の間、惜しむことなく、あらゆる技や生きる知恵を授けてくれたのです。その口伝のひとつが、“人の心の中には仏と鬼が住む”というものです」
──どういう意味ですか。
「鬼には良いイメージはないでしょうが、鬼瓦ってあるでしょう。あれは魔除けです。鬼は恐ろしいだけではなく、守ってくれる身近な存在でもある。そして、仕事の鬼、勉強の鬼、研究の鬼……。ひとつのことに精魂を傾ける人を喩える時も、やはり鬼を用います。『魂』という漢字を見てください。『鬼が云う』と書いて魂です。鬼がもの言うんです、心の中に住んでいる鬼が。他人が見ていないからと怠けていれば、心に住む鬼は先刻承知です。鬼がね、それじゃあかんと言ってくる。魂を磨くとは、心の中の鬼と向かい合うことなんです。魂を磨いていけば、必ず輝く。その向こうに仏さんはいます。
そうか、師が言っていたのは、自分を誤魔化さず、鬼の如く専心しろということだったのか。そう気づいたのは、50歳を過ぎてからのことですが」
──師亡き後は。
「国宝修理所への就職や他の師に師事する話もありましたが、すべて断りました。宗慶師以外の師は生涯持たないと決めていたんです。20歳の仏師に何が彫れるんか、という批判があることもわかっていましたが……」
──経験が幅をきかせる世界と聞きます。
「年数ばかり口にする先人がいはるでしょ? 仏師は60年続けて一人前だとか。じゃあ30年目に彫った仏像は半人前なんか、と不快になった。でも、仮に60 年で一人前というなら、1日で3日分生きれば、20 年で追いつける。それを自分に課して60年が経ちました」
──さまざまな苦労があったでしょう。
「そんなことはすべて忘れました(笑)。ひたすら前だけを見て、生きてきただけですから。過去を振り返る暇はありません」
「“ええもん”を見ることも必要。先人の技に納得せず、自分に問う」
──年齢を重ねても前だけを見る。
「次はもっとええもんを造ろう、というのが、私どもの工房の合言葉です。常に“ネクスト・ワン”ということですわ。1日前、1秒前の自分を超えよう、と」
──そのために何が必要ですか。
「弟子たちを見ていてもそう思いますが、何よりも大事なのは、“仏像を彫ることが面白くてたまらない”という気持ちです。手先の器用さとか、そういうことではありません。わずかな時間も惜しんで、彫刻に向き合う構えがあれば、どこまでも伸びていきます」
──技術だけが重要ではない、と。
「かつて野崎宗慶師から教えられたのが、室町時代の高僧、一休禅師の逸話です。ある時、一休禅師は、京から大坂まで木津川を船で下りました。船頭は禅師に気づき“偉い坊さんなら、俺に仏を見せてくれ”とふっかけた。すると禅師は“ならばこの船が着くまで、『仏来い』と呼び続けなさい”と命じたのです。大坂に着くと禅師は船頭に問いました。“仏は来たか?”。船頭はこう答えました。“来た!”」
──何を伝えんとしているのでしょう。
「私もしばらく、意味が掴めませんでした。30歳の時に、師のご長男で彫刻家の野崎一良先生(京都市立芸術大学名誉教授)から、慶派を継いでくれないかという話がありました。以来、明慶を名乗るようになったのですが、その頃でしょうか。この口伝の意味は、どれだけ自分の仕事に打ち込んでいるか、自分に問えということではないかと気づいたのです。一心に向かえ、ということです。尽くした先に“ネクスト・ワン”の道が見えてくる。これでいいと思ったら先はない」
──過去の自分に満足することがない。
「仏師に、これでいいだろう、という終わりはないんです。だから人生の終わりとか、人生の仕舞い方とか、そんなことを考えたこともありません。一刻も無駄にせず、いつでもその刹那 、刹那に精魂を傾けるだけ。死ぬ直前に“あかん、もったいない時間の使い方をした”と思いたくないですから。もうひとつ必要なのは、“ええもん”を見ること」
──先人の作品を見る。
「工房で仏像修理を請け負うのも、先人の技を見ておきたいという理由からです。各地の秘仏もぎょうさん見に行きました。でもね、“すごい”で終わっちゃだめです。例えば、運慶・快慶の作品で有名なのは、東大寺(奈良県)南大門の金剛力士像ですが、下から見上げるとものすごい迫力です。ですが、部分を見ていくと、胸の筋肉などありえない造形も多い。見上げることを想定した造形でしょうが、自分ならこうは彫らないぞ、と思う部分もある。簡単に納得せず、自分ならどうするかと問うのも、一心に向かうことです」
──終わりがありません。
「それでも自分自身や作品に満足する瞬間はあるんです。“ええもん”が彫りあがると、知らない間に涙が出てきよる。弟子の作品を見て、腕が上がったのがわかった時も、心が震えて泣けてくる。この瞬間があるからこそ、さらに先へと向かえるのでしょう」
松本明慶(まつもと・みょうけい)
昭和20年6月23日、京都府生まれ。運慶・快慶の流れを汲む慶派の継承者。これまで数千体の仏像を造り、数百体の国宝級の仏像を修復。17歳の時に独学で仏像彫刻を始め、19歳で京仏師・野崎宗慶に弟子入り。平成3年、「大佛師」の号を拝命。平成11年に世界最大級の木造大仏(総高18.5m)を11年の歳月をかけ完成。平成17年、京都に松本明慶佛像彫刻美術館を開館。作品集に『道』など。
※この記事は『サライ』本誌2024年7月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/福森クニヒロ、吉場正和)