大石芳野(写真家)
─世界中の戦争の記憶を撮り続けるドキュメンタリー写真家─
「私は世界を知りたい。そして知ったことを伝えたい。そのためにカメラがあるのです」
──写真を撮り続けて半世紀を超えました。
「ずっとドキュメンタリー写真を撮ってきました。ベトナム、カンボジア、アウシュヴィッツ(ポーランド)、アフガニスタン、そしてウクライナ。訪れた国や地域は、国内を含めて100か所以上になります。なぜそこに? きっと、“知りたい”という欲求に突き動かされていたのでしょう」
──「知りたい」という欲求があった。
「1990年代の終わりに、東ヨーロッパでコソボ紛争が起きました。自宅のテレビを観ていたら、霙が降る中、ユーゴスラビアの国境付近で、靴下だけで靴も履かず、震えている多くの人たちが映っていました。いったいここで何があったのでしょう? そこで起きている本当のことをこの目で見たい。彼らが何を思っているか知りたい。どうしても気になるのです。その思いが強まって、私はカメラを手に、そこへ向かってしまう。
ベトナムもそうでした。’81年、戦争が終わって6年後の彼の地に、私は足を踏み入れました。そこで、会う人、会う人に、“あなたは戦時中、どこで何をしていましたか?”と聞いて回りました。8歳で見張りを買って出たと語ってくれた少年は、両親が道を歩いていただけで米軍に射殺されたことも話してくれました」
──撮影するのではなく、聞くのですか?
「私の写真は、芸術作品ではありません。自分の作品を撮ろうとも思っていない。私は知りたいのです。そして知り得たことを伝えたい。そのためにカメラがあるんです。
実は小さい頃から極度の人見知りで、昔を知る人は、私が写真家であることがイメージできないといいます。例えば家にお客さんがいらっしゃるでしょ? お茶を応接室にお出しするのは子どもの仕事だったのですが、私はそれが嫌で嫌でたまらなかった」
──でも今は初対面でも話しかける。
「カメラを手にすると、それが可能になるんです。知りたい、伝えたい、という気持ちが先に立って、話しかけることができる。私が伝えたいのは、彼ら彼女たちの思いや記憶です。相手ときちんと向き合わなければ、写真には撮れません」
──なぜ戦禍の地ばかり、訪れるのですか。
「理由のひとつは、かつて戦争を起こした国に生まれ育ちながら、私自身が、戦争を知らないということです。私の学生時代はベトナム戦争の真っ只中でした。各地で今も起こり続けている戦争を、知らないままでいいのか。他人事にしていいのか。そう自問したのです。私はこの目で確かめたかったのです」
──簡単な撮影ではありません。
「ベトナム戦争当時の不発弾が眠る地を進んだこともあります。危険とは常に隣り合わせです。彼の地で出会う人たちは、皆、傷を抱えていて、その理不尽さに圧倒され、自分が疲弊してしまうこともしばしばあります。その人の傷を聞き出し、写真に撮るということは、自分の心も無傷ではいられない。何も苦労して、辛い思いして、こんなことをしなくていいんじゃないか。そう思うこともあるけれど、しばらくすると、傷ついた人たちのことが気になってくる。戦争って、政治が起こす暴力ですよね? だとするならば、人はそれを止めることができる。私が戦争の傷を伝えることで、その過ちに気づく人が少しでも増えるならば、私はやっぱり、そこに足を運んで、カメラを向けなければならないと思うのです」
──ですが撮られたくない人もいるのでは?
「私の思いを伝え、目の前の人の言葉を受け止めていると、大抵の場合、撮影を許してくれます。“どうして撮るの?”と聞かれた時には、こう答えています。“あなたのような経験を、これからの人たちにしてほしくないから。あなたのことを、忘れないようにしたいから”。同じ地を何年かのちに訪ねた際、撮影した少年に再会したことがあるのですが、その時は、“忘れないといったのに、なぜ何年も会いに来てくれなかったの?”と責められました」
──子どもや女性の写真が多いですね。
「意図したり狙ったりしているわけではありませんが、きっと、子どもや女性が、戦争でいちばん傷を負う人たちだからでしょう。例えばベトナムの少年の多くは、戦争当時、斥候や伝令など、戦争の手助けをしました。でも彼らは、好き好んでそんなことをしたのではありません。そうせざるを得なかった。戦争を体験した子どもたちは、ベトナムでもアフガンでもコソボでも、国や地域にかかわらず、決まって同じ言葉を口にします。“僕のような思いをしてほしくない”と。だからそのことを日本のみんなに伝えてほしいと訴えてくるのです」
「知らない、ということが偏見と差別の元になる」
──日本では戦争の記憶は薄くなっています。
「あの太平洋戦争以来、日本は77年間、戦争をしていません。これは誇っていいことです。それはなぜかと考えていくと、日本国憲法9条に行き着きます。9条で戦争はしないと誓ったことが大きい。不戦の誓いや掟が政治行動を縛り、戦争に向かいにくくするのです。紛争地帯で撮影をしていて、“この国にも憲法9条があったら”と思うことが少なくありません。日本では今、9条が政争の具となり、イデオロギーの対立軸になってしまった。9条が果たしてきた役割が省みられず、蔑ろにされていることがとても残念です」
──そもそも、なぜこの道に?
「父がカメラ好きで、カメラが遠い存在じゃなかったんですね。小学生の頃から、“私にも撮らせて”とよく父に頼んでいました。それもあって、大学で写真を学んだのですが、写真家になるんだという強い覚悟があったわけではありません。20歳を過ぎた頃には、お見合いも勧められましたしね。当時の女性は、誰かの妻になることが幸せだと固く信じられていました。私ですか? 私はその前に、もっと社会と繋がっていたかった。この世界を知りたかったんだと思います。その手段として写真家という方法があった」
──世界を知る手段だった。
「半世紀以上、写真家を続けていますが、写真は今でも難しいと感じています。不器用ですしね。自分は写真に向いていないんじゃないか、と落ち込んだことも一度や二度ではありません。人生を賭けるなら、他のことがあるんじゃないか。そう悩んだこともあります。もう他の仕事に転身できる年齢ではありませんので、生涯写真家なのでしょうけれど。
特に写真家になりたての頃は、女性の写真家の数が極端に少なかったんです。現場に行くと“カメラマンはまだですか?”と何度も尋ねられました。男性のアシスタントを連れて行くと、アシスタントがカメラマンと間違えられました。“女とはお茶は飲みたいが仕事はしたくない”と仕事相手からはっきりと言われたこともあります」
──偏見が強くあったのですね。
「今でこそ、こうした女性に対する偏見は少なくなってきましたが、それでもまだ残っています。これに限らず、他国への偏見や人種に対する差別もなくなっていません。日本をみても、アイヌや沖縄の人々への理解が進んでいるとは言い難い。なぜこうした偏見や差別がなくならないかといえば、きっと“知らない”からでしょう。知らないがゆえに、自分の住む世界だけが正しいと信じ、他を否定してしまうのです」
──知らないから偏見が生まれる。
「27歳の時に、太平洋に浮かぶパプアニューギニアをひとりで訪れたことがあります。当時はまだよく知られていない島で、20代の女性がひとりで行く場所じゃないと周囲から止められました。もちろん両親にも内緒で行きました。当時は先進国から見れば、パプアニューギニアは未開の地で、非常に遅れていました。’70年代の同地の多くの人々は格好も裸同然で、石器時代を思わせる風習が色濃く残っていました。ところが、彼らの中にまじって一緒に生活してみると、おしゃれにも気を使っていたし、何より智慧があった。未開で野蛮に見えるかもしれないけれど、先進国の人にとって困難な自然との共生を、いとも容易(たやす)く成し遂げていました。いったいどちらが進んでいるのでしょう? パプアニューギニアの人たちを知れば、彼らを差別する気持ちは起きないはずです」
「満足した写真はこれまで一枚もない。だから撮り続けるのです」
──知れば変わる。
「そうです。だから私は、戦禍を被った人たちを撮影し、彼らの体験を伝えたいと思うのです。今回のロシアによるウクライナの侵攻では、このことをきっかけに、日本国内で、日本も核爆弾を持つべきだ、敵基地攻撃能力を備えよ、という議論が巻き起こりました。いったい彼らは、原爆の恐ろしさや戦争の悲惨さを知っているのでしょうか。私は、原爆症に苦しむ被爆者を撮り続けてきました。彼らの思いや痛みを知れば、核保有を主張するなんてことは、できないはずです。戦争についても同じです。戦禍で傷ついた人の声を聞けば、戦争や軍備が正義だという発想にはなりません」
──ですが世界各国で戦争が続いています。
「アフガニスタン戦争で、旧ソ連の若い兵士を取材しました。彼らによると、わずか1週間程度の訓練で戦場に送り込まれたとのことでした。ウクライナでは、似たようなことが今のロシア兵に行なわれています。戦争で命を失うのは、こうした市井の人々なのです。知らないから、愚かな行為が繰り返されてしまう。コソボやベトナムで、目の前で両親を殺された子どもたちに会いました。今も世界各地で、こうした不幸が起きている。私はそれを知りたい。伝えたい。ですが、新型コロナウイルス感染症の拡大もあって、2020年以降、海外での撮影に行けずにいます」
──コロナの影響は大きかったのですね。
「対面し、じっくり話を聞いて撮影する、という私の撮影スタイルでは、どうしても感染のリスクが高い。手をこまねくしかありませんでした。ウクライナのチェルノブイリ原発が爆発事故を起こしたのは、1986年のことですが、私はこの事故に苦しむ人々をずっと追っています。実は2020年に訪問する計画を前年から立てていました。それが、コロナ拡大によって、断念せざるを得なかった。再度計画しましたが、今度はロシアのウクライナ侵攻でだめになってしまった。
ささやかなプラスもありました。夏に『わたしの心のレンズ』(集英社インターナショナル)というエッセイを上梓したのですが、これはコロナの副産物です。コロナ禍で撮影に行けなくなり、生じた膨大な時間で、これま
での半生を振り返ってみたのです。時間があったからこそ、できたことでした」
──今後の撮影計画を教えてください。
「やりかけのものがいくつもありますが、今、いちばん訪れたいのは、やはりウクライナです。私がかつて歩いた首都キーウの街並みや、かつて訪ねた人々が暮らしていた住居は、ロシアの爆弾で破壊されています。侵攻初期のニュース映像に映った、瓦礫の中で活動していた医師の姿は、間違っていなければ私が以前、取材をした方でした。すぐにでもカメラを手に飛んでいきたいのですが、今、私が行っても足手まといになるだけです。ただ遠くから祈るしかありません。それでもいつか訪れて撮影し、負の記録として伝えていきたいと強く思っています」
──「伝える」ことが大事なのですね。
「伝えたい。これが私の写真の原点です。そのためにカメラを構えるのですが、目の前の人々の体験を撮り切れていないといつも感じます。満足した写真は一枚もありません。もっとこうすれば良かったという反省ばかり。だから撮り続けるのかもしれません」
大石芳野(おおいし・よしの)
昭和19年、東京生まれ。東京工芸大学芸術学部客員教授。世界平和アピール七人委員会委員。日本大学芸術学部写真学科卒業後、ドキュメンタリー写真に携わり、以後、戦争や内乱などで傷ついた人々の姿を捉え続けている。土門拳賞(『ベトナム 凜と』)、エイボン女性大賞、紫綬褒章などを受賞。写真集に『戦禍の記憶』『長崎の痕』など多数。近著に、エッセイ『わたしの心のレンズ』。
※この記事は『サライ』本誌2023年2月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/宮地 工)