文/池上信次
前回(https://serai.jp/hobby/1188361)はジャズの「ステレオ・レコード」の日本での普及を見てみましたが、今回はその源流となるアメリカでのジャズのステレオ盤制作事情を見てみましょう。
まず、レコーディング・エンジニアのステレオ盤への取り組み。モダン・ジャズのレコーディング・エンジニアといえばルディ・ヴァン・ゲルダー(1924〜2016)。モダン・ジャズ時代のブルーノート・レコードでの活動がとくに知られていますが、ブルーノートの録音を始めたのは1954年のことで、それ以前からサヴォイ、プレスティッジなど、モダン・ジャズのマイナー・レーベルで録音を行なっていました。ザ・ヴァン・ゲルダー・エステイトなどが運営する、ヴァン・ゲルダーの「遺産」を残すことを目的にしたウェブ・サイト「RVG Legacy」には、ヴァン・ゲルダーの仕事が詳細に記録されています。そのなかの「Mono & Stereo」という項には、ヴァン・ゲルダーの「ステレオ」導入の経緯が記されています(サッシャ・ザンド、アシュリー・カーン、フレデリック・コーエンらの著書より引用したまとめ)。
要旨をまとめると、
●1956年にヴァン・ゲルダーはアトランティック・レコードのエンジニア、トム・ダウドと一緒にステレオの実験を行なっていた。
●ヴァン・ゲルダーが初めてステレオ録音を行ったのは、57年3月。マンハッタン・タワーズのボールルームでのアート・ブレイキーのブルーノート・セッション。ヴァン・ゲルダーはAmpex350-2P・ポータブル・2トラック・テープレコーダーを使用した。
●57年5月、ブルーノートはすべてのセッションをステレオとモノラルの両方で録音することを始めた。しかし、ブルーノートは市場でのステレオの持続力に懐疑的で、2年間はステレオ盤をリリースしない予定だった。
●ヴァン・ゲルダーが仕事をしていたサヴォイ・レコードは、ステレオ盤専門のワールド・ワイド・レコードを設立し、58年4月にコールマン・ホーキンスによる最初のステレオ盤をリリースした。これはヴァン・ゲルダーがマスタリングした最初のステレオLPとなった。(注:最初がジャズだが、ジャズの専門レーベルではない)
●59年5月、(注:予定通り、録音から2年後)ブルーノートは最初のステレオLP3枚(キャノンボール・アダレイ『サムシン・エルス』、アート・ブレイキー『モーニン』、ホレス・シルヴァー『フィンガー・ポッピン』)を発売した。これらのマスタリングはいずれもヴァン・ゲルダーによるもの。
(注:『21世紀版ブルーノート・ブック』[行方均、マイケル・カスクーナ監修]によれば、初のステレオ盤発売は59年8月で、ここに『ブルース・ウォーク/ルー・ドナルドソン』を加えた全4枚とある)
アメリカでのステレオ「レコード」の初発売は1958年3月のこと。その前にすでにステレオ「テープ」が商品化されていたこともあり、エンジニアは早くから「ステレオ」を研究していたようです。
ブルーノートと並ぶモダン・ジャズの重要レーベルのひとつであるリヴァーサイドはどうかというと、ステレオ盤は「Stereo 1100 series」という、モノラル盤とは違う品番で発売し、「ステレオ」であることを明確に打ち出していました。テスト・レコードを除くその初番は、セロニアス・モンクの『モンクス・ミュージック』。録音は1957年6月。モノラル盤リリースは同年11月、1100 seriesのステレオ盤(RLP 1102)はその9か月後の58年8月にリリースされました。リヴァーサイドはステレオ盤のリリースには積極的だったようです。
リヴァーサイドのプロデューサー、オーリン・キープニューズは『ビル・エヴァンス・コンプリート・レコーディングス』のライナーノーツで、当時のステレオ事情についてこのように記しています。
(1959年12月録音のビル・エヴァンス『ポートレート・イン・ジャズ』で、モノラル盤とステレオ盤で「枯葉」の収録テイクが異なることについて)「その頃は2トラックのステレオ録音は、まだ新顔の素朴なもので、多くのスタジオでは録音機器の標準装備になっていなかった。この曲の場合では、われわれがベスト・テイクだと思っていた演奏の間に、セパレート式のポータブル・ステレオ録音機の調子が悪くなってしまった。ステレオ録音(それがまだいかがわしいものと考えられており、レコード・セールスの面でも、おそらく全体の10%くらいを占めていたに過ぎない)ということに拘束されたくなかったので、われわれは気に入ったモノラル録音のバージョンのほうを発売し、次善のテイクをステレオ・レコードに収録した。」(坂口紀三和訳)
この録音の1年以上前から、すでに多くのステレオ盤をリリースしていたにもかかわらず、作り手はまだまだモノラル盤優先だったことがうかがえます。
これらを見ると、技術者サイドは早くからこの「ニュー・テクノロジー」に取り組み、メジャー・レーベルは大々的に展開する(普及させる。売れるようにする)一方、小規模ジャズ・レーベルはこの「ニュー・メディア」の動向を冷静に見ていた(普及するのか? 売れるのか?)というのが実情のようです。現在では当たり前の「ステレオ」ですが、ジャズにおいては、登場当時はかなり異端な存在だったのでした。
文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。ライターとしては、電子書籍『サブスクで学ぶジャズ史』シリーズを刊行。編集者としては『後藤雅洋著/一生モノのジャズ・ヴォーカル名盤500』(小学館新書)、『小川隆夫著/マイルス・デイヴィス大事典』(シンコーミュージック・エンタテイメント)、『後藤雅洋監修/ゼロから分かる!ジャズ入門』(世界文化社)などを手がける。また、鎌倉エフエムのジャズ番組「世界はジャズを求めてる」で、月1回パーソナリティを務めている。