さまざまな事件を起こし朝廷を相手に訴訟も
仁聡は日本でかなり自由に過ごしていたようで、しばしば問題も起こしています。
たとえば『日本紀略』によれば、長徳2年(996)10月6日、朝廷内で朱仁聡のことを審議し、11月8日、律令の専門家である明法博士(みょうぼうはかせ)に対して、朱仁聡の罪名を調査・答申することを命じています。このときの罪状は定かではありませんが、仁聡らは越前国から鵝(がちょう)・鸚鵡(おうむ)・羊を献じて入京していて、この貢物は翌3年9月に仁聡らに返却されているとの記録があります。
長徳3年(997)10月18日には、若狭守に乱暴したという記事があり(藤原実資の日記『小右記(しょうゆうき)』など)、朝廷はやはり明法博士に罪名の調査・答申を命じています。
藤原行成(ゆきなり)の日記『権記(ごんき)』の長保元年(999)7月20日には、石清水(いわしみず)八幡宮に貢物を捧げるための朱仁聡の使いが、修行僧に捕らえられる事件が記されています。使者が何かやらかしたのでしょう。また、長保2年(1000)には、朱仁聡が一条天皇の中宮・定子に献上された品物の代金未払いに対して、訴訟を起こしています。
これに関連して、行成が中宮職だった高階明順(たかしなのあきのぶ)を召し出して事の真偽を問い、代金を払うための使者が越前国に派遣されたものの、朱仁聡らは太宰府に移っていて未納となってしまったことが判明しました。
朱仁聡がいつ帰国したのか、最後に日本に来たのはいつかなどは明確ではありませんが、少なくとも長徳元年(995)より長保2年(1000)までの約5年間、若狭・越前に滞在し交易を行なっていたことは確かなようです。
まとめ
1200年前、日本と大陸を行き来し活発な交易活動を行なっていた、北宋の商人・朱仁聡。時に問題を起こして朝廷や役人をあたふたさせる要注意人物でもあったようですが、平安時代中期の日本に大きな刺激とインパクトを与えたことは間違いないでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
イラスト/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考文/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『福井県史』通史