はじめに-朱仁聡とはどのような人物だったのか
朱仁聡(しゅ・じんそう/ヂュ・レンツォン)は、中国・宋の商人で、永延元年(987)から数度にわたり日本に上陸。若狭国(わかさのくに)・越前国(えちぜんのくに)を拠点として、紫式部の父・藤原為時(ふじわらのためとき)や源信僧都(げんしんそうず)との交流のエピソードが残っています。朝廷とも取引するなど、日本で比較的自由に活動していたと思われる朱仁聡は、実際にはどのような人物だったのか? 史実をベースに紐解いてみましょう。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、宋からやってきた商人らの長で、越前に逗留。実は宋の朝廷からある密命を負っており、越前守の藤原為時との交渉にあたる人物(演:浩歌/ハオゴー)として描かれます。
目次
はじめに—朱仁聡とはどのような人物だったのか
朱仁聡が生きた時代
朱仁聡の生涯と主な出来事
まとめ
朱仁聡が生きた時代
中国の王朝は北宋。朱子学(しゅしがく)が誕生し、貿易が盛んとなって、日本に香料・茶・陶磁器・絹織物・書籍・薬品などをもたらしました。
その日本の朝廷では、一条天皇に娘・彰子(しょうし/あきこ)を入内させた藤原道長が、外戚として権力を増大。紫式部、清少納言、赤染衛門(あかぞめえもん)、和泉式部などの女流文学が隆盛となり、国風文化が円熟期を迎えていました。
朱仁聡の生涯と主な出来事
朱仁聡は、中国・北宋の商人で、生没年は不明。本記事では、日本滞在中の出来事を辿ります。
朱仁聡と高僧・源信との交流
朱仁聡は、平安時代の歴史書『扶桑略記(ふそうりゃくき)』や『日本紀略(にほんきりゃく)』によると、永延元年(987)10月26日に来航し、翌年には羊を朝廷に献上しています。またこのとき、天台宗の高僧・源信僧都が、弟子の寛印(かんいん)と共に敦賀を訪れ、仁聡と面会。
『続本朝往生伝(ぞくほんちょうおうじょうでん)』などには、仁聡が航海の安全祈願のため、船内に掲げてある婆刪婆演底守夜神(ばさんばえんていしゅやじん)の画像を示してその知識を試みたところ、二人が即座に画像にちなんだ『華厳経(けごんきょう)』の中の句を記したので、学識の高さに驚いたという話が伝えられています。
『源信僧都伝』によると、永延2年(988)、源信は西海道(さいかいどう)を托鉢中に、仁聡と同船だったといわれる僧・斉隠(さいいん)に著作の『往生要集(おうじょうようしゅう)』を贈ったとの記述があり、その折に再び仁聡とも会っていると推測されています。
【藤原為時が越前へ。唐人に対応する。次ページに続きます】