藤原為時が越前へ。唐人に対応する

長徳元年(995)9月、朱仁聡、林庭幹(りん・ていかん)ら70余人が、若狭国に来航したとの情報が朝廷にもたらされます。その初見は、9月4日、藤原道長が一条天皇に奏上した「唐人来航の文」(藤原頼長の日記『台記(だいき)』)。これにより唐人に対する審議が重ねられ、結果、仁聡ら一行は越前国へ移されることになりました。

歴史書『本朝世紀(ほんちょうせいき)』には、「(一条天皇の)仰せに依り、右大臣(藤原道長)に下し奉る。件の唐人、越前国へ移さるべきの由、前日、諸卿定め申さる」とあります。仁聡らが越前国に滞在していた長徳2年(996)正月、越前守(えちぜんのかみ)に任じられたのが紫式部の父・藤原為時です。

実は淡路守に任命されていたのが、急きょ、越前国への赴任となりました。学識のある為時に唐人との対応を当たらせたいという、一条天皇の意図に道長が応えたといわれています。為時は、仁聡らと共に来日したと思われる羌世昌(きょう・せいしょう)なる人物と、漢詩を唱和するなど交流したと伝えられています(福建省の商人・周世昌との説もあります)。このとき、紫式部も越前国へ同行。23歳前後のこととされています。

藤原為時
藤原為時

<紫式部の歌>

春なれど白嶺(しらね)の深雪(みゆき)いや積もり解くべき程のいつとなきかな
(春ではありますが、こちらの白山の深い雪にさらに雪が積もり、いつ解けるかもわかりません)

この詞書(まくらがき)に、「唐人見にゆかむ(唐人を見に行こうと思っています)」、と紫式部への手紙に書いていた人がいることが記されており、それはのちに夫となる藤原宣孝(のぶたか)であることが定説です。

さまざまな事件を起こし朝廷を相手に訴訟も。次ページに続きます

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