和歌に託した良妻賢母パワー
赤染衛門は、長保3年(1001)、寛弘6年(1009)の2度、夫の尾張赴任に共に下向して夫を支えました。
賤(しず)の男の種干すといふ春の田を つくりますだの神にまかせん
これは長保3年のときの歌とされます。何らかの理由で農民らが腹を立て仕事を行なわなかっため、春の田を作ってくれるという真清田(真清田神社)の神に、彼らが農作業を始めてくれるようよう祈ったという意味です。
また、平安時代末期に成立した説話集『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』には、次のような赤染衛門の逸話があります。
息子の挙周の出世が思うにかませないとき、赤染衛門は鷹司殿(倫子)に、下のような歌を送りました。
思え君かしらの雪を打ち払ひ 消えぬ先にと急ぐ心を
(我が君よ、我が白髪の頭に降りかかる白雪を打ち払い、その雪のようにわが身が消えないうちにと急ぐ心をどうか察してください)
これを読んだ道長は情にほだされ、挙周を和泉守(いずみのかみ)に任じたといいます。これも赤染衛門が道長・倫子に信頼されていたからこその待遇といえるでしょう。もちろん、赤染衛門も息子に同行しました。
その和泉国で挙周が長患いをしたときには、住吉明神にて病気平癒を祈願し、御幣の玉串に歌を書きつけて奉納したといいます。
代らむと思ふ命は惜しからで さても別れむほどぞ悲しき
(我が子に代われるなら私の命など惜しくはありませんが、祈りがかなって子と別れることになるのは悲しいことです)
母の思いが通じたのか、挙周は回復しました。
『栄花物語』の作者ともいわれる
長和元年(1012)、に夫・匡衡が逝去します。その後、赤染衛門は、長元8年(1035)関白左大臣頼通歌合(かんぱくさだいじんよりみちうたあわせ)に出詠、長久2年(1041)弘徽殿女御生歌合(こきでんのにょうごうたわせ)に出詠したことが記録にあり、同年、ひ孫の誕生を祝う和歌を詠んだのが最後といわれます。それから間もなく没したと考えられますが、当時としては大変な長寿でした。
赤染衛門は、『拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)』以下の勅撰和歌集に93首が選ばれています。このなかの、
やすらはで寝なましものをさ夜ふけて かたぶくまでの月を見しかな
(こんなことなら、あれこれ考えずに寝てしまえばよかった。あなたを待っているうちに夜が更けて、西に傾いて沈んでいく月を見てしまいましたよ)
は百人一首でもおなじみです。
ところで、良妻賢母タイプの赤染衛門と恋多き和泉式部は正反対の生きざまながら、歌人としては並び称されることが多いです。鴨長明(かものちょうめい)による、鎌倉時代の歌論書『無名抄(むみょうしょう)』では、赤染衛門のほうを高く評価しています。
また、平安時代の歴史物語『栄花物語(えいがものがたり)』の正編30巻(続編もあり)は、道長が没するまでが描かれており、赤染衛門の作だと有力視されています。
まとめ
当代一流の歌人であり、『栄花物語』の作者説もある赤染衛門。優れた才能を時に夫や子のために生かし、彼らの出世を支えました。仲睦まじかった匡衡との子孫には、2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で源頼朝・政子の側近として活躍した大江広元(ひろもと)がおり、さらには戦国時代の中国地方の雄・毛利氏へと続いていきます。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB
引用・参考文献/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)