平惟仲邸で中宮定子は長女を出産。道兼の前妻を妻に。
平惟仲の邸宅は、左京の三条高倉にありました。この邸宅で、一条天皇の皇后であり兼家の孫である藤原定子は長女の脩子内親王(しゅうしないしんのう)を出産したのです。この時、定子に仕えていた清少納言も惟仲邸に滞在したと言われています。
なお、惟仲は一条天皇の乳母であり、藤原道兼の前妻であった藤原繁子(はんし)を妻としました。さらに、兼家の娘であり、一条天皇の母である藤原詮子(ふじわらのあきこ/せんし)は、この惟仲邸を御所とし、ここで没しています。
こうしたことを考えても、兼家との関係は非常に深かったことが伝わってきます。
太宰府の長官に。しかし、訴えられて解任…
長保3年(1001)には大宰権帥(だざいのごんのそち)となり、太宰府(=現在の福岡県太宰府市)に下向します。2年後には、従二位となりますが、翌年、宇佐神宮の宝殿を封じたことで、宇佐神宮の宮司から訴えられることに。その結果、寛弘元年(1004)、大宰権帥を解任されます。
翌年、惟仲は厠(かわや)で倒れます。腰を骨折し、それが原因で亡くなりました。62歳でした。この出来事は、“宇佐神宮の祟り”だと噂されたそうです。
太宰府の地で亡くなったため、遺骨は藤原道長の命により、惟仲の弟である生昌(なりまさ)が京へと運びました。
まとめ
平惟仲は、これだけの出世を遂げたのですから、当然人並外れた才能を有していたのでしょう。しかし、和歌や漢詩に秀でた歌人でもある藤原公任(ふじわらのきんとう)からは、「故実(こじつ、古事の範例とすべきもののこと)を知らず」と言われたことがあるとの逸話が残されています。
惟仲の末路を考えると、奇しくも公任の言ったことは的を射た部分があったのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/京都メディアライン
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考文献/
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)