はじめに-平惟仲とはどのような人物だったのか
平惟仲(たいらのこれなか)という人物の名をご存知の方は、多くはないかもしれません。惟仲は、藤原氏全盛期の礎を築いた藤原兼家(ふじわらのかねいえ)に重用された人物です。
平惟仲とはどのような人物だったのか、史実をベースに辿ってみましょう。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、藤原兼家の家司(けいし)であり、大学頭(だいがくのかみ)や弁官などを歴任する人物(演:佐古井隆之)として描かれます。
目次
はじめに-平惟仲とはどんな人物だったのか?
平惟仲が生きた時代
平惟仲の足跡と主な出来事
まとめ
平惟仲が生きた時代
平惟仲は、天慶7年(944)に生まれた平安時代中期の公卿です。惟仲が生まれた時代は、天皇家と密接な関係にあった藤原氏が他の貴族たちを圧倒するほど力を有していきました。
その中でも、平惟仲は、藤原氏全盛期の礎を築いた氏長者となる藤原兼家に取り立てられることとなります。
平惟仲の足跡と主な出来事
平惟仲は、天慶7年(944)に生まれ、寛弘2年(1005)に没しています。その生涯を、主な出来事とともに紐解いていきましょう。
藤原兼家に重用される
惟仲は、天慶7年(944)に父・平珍材(美作介珍材)、母は備中(備後もしくは讃岐とも言われる)の郡司の娘の子として誕生しました。
康保3年(966)に東宮に昇殿して以降は、肥後守、大学頭、弁官、蔵人頭に。正暦3年(992)には、藤原兼家によって参議に取り立てられました。
その後も兼家に重用され、長徳4年(998)には中納言になります。中納言とは、令制の太政官の官職名の一つで、大納言に次ぐ身分のこと。主に天下の政事を預かっていたのです。
また、摂政となった藤原兼家の家司(家政を司る職)にもなります。藤原有国(ふじわらのありくに)とともに「左右の眼」と称されました。
【平惟仲邸で中宮定子は長女を出産。道兼の前妻を妻に。次ページに続きます】