竹千代の乳母として、江戸へ
1603年(慶長8)、徳川幕府が開府。その翌年、次期将軍・徳川秀忠とお江(ごう)の間に家康の嫡孫・竹千代(たけちよ、のちの3代将軍・家光)が生まれると、乳母募集のお触れが出されました。条件は「京都に在住経験があること」「教養があること」だったと伝えられています。
福が乳母に選ばれたのには、夫・正成を通じて家康と面識があったという説や、三条西家からの強い推挙など諸説あり確かなことはわかりません。しかし、乳母の条件を満たし家柄的にも申し分のない福は、選ばれるべくして選ばれたといえるでしょう。
福は夫との間に4男をもうけていましたが、夫婦関係はうまくいっておらず、乳母に選ばれると夫とは離縁。長男・正勝(まさかつ)を連れて江戸へ向かいます。正勝は家光の小姓として仕え、のちに小田原藩初代藩主にまで出世しました。
人生、大逆転。「大奥」に君臨する
福が乳母となって1年後、竹千代に弟・国松(くにまつ のちの忠長)が誕生。国松は大変聡明で、『武野燭談(ぶやしょくだん)』によると、秀忠とお江は国松を寵愛、世継ぎは国松ではないかとの噂が立ったほどだったといいます。これに危機を感じた福は駿府へ出向き、大御所となっていた家康に直談判。家康が長子優先を明確にしたことで、竹千代が世継ぎに決定したという逸話が残されています。
元和9年(1623)、家光が3代将軍に就任すると、お江のもと、大奥(徳川将軍家の正室、子女、側室、奥女中らの居住区)の公務を取り仕切り、お江が没したのちは大奥を統率。役職の整理や数々の法度を定めるなど大奥を構造的に整備しました。
そして「将軍様御局(おつぼね)」として、女子のことはすべて福一人で沙汰したといわれています。将軍の威光を背景に、福の言動は幕政にも影響をおよぼし、その権力は老中をもしのぐほどだったと伝えられます。
高い位と「春日局」の号を授かる
寛永6年(1629)、福は、家光の疱瘡(ほうそう)治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、そのまま上洛して御所への昇殿を図りました。これは、「紫衣(しえ)事件」で幕府の処置に対し、逆鱗する後水尾天皇と幕府の融和のためであり、大御所となっていた秀忠の意向だったといわれます。
しかし、無位無官で御所に昇殿するわけにはいきません。そこで三条西家の義理の娘として縁組し、藤原福子として参内。天皇より従三位の位と天盃、「春日局」の号を賜りました。さらに寛永9年(1632)の再上洛の際に従二位に。平時子(平清盛妻)、北条政子(源頼朝妻)と同じ階位となりました。
晩年には湯島(東京都文京区)に屋敷を与えられ、春日局はここで没しました。
ところで春日局は、死してなお、幕政に影響力を保っていたのをご存じですか。春日局は息子の正勝に先立たれており、孫・正則(まさのり)を養育していました。寛永12年(1635)には、家光の意思で義理のひ孫の堀田正俊(ほった・まさとし)を養子にします。
家光は、春日局の死の直前、稲葉正則の娘と堀田正俊の婚約、正則の妹と酒井忠能(さかい・ただよし)の婚約を発表。正俊は5代将軍・綱吉(つなよし)の時代に、忠能は4代将軍・家綱(いえつな)の時代に大老に就任しています。
最後に
逆境を跳ね返し、権力を握った春日局。烈女とも称されますが、自分を取り立ててくれた家康に生涯恩義を感じ、竹千代にその帝王学を教え込んだといわれます。また、春日局の整備した「大奥」は、その後、幕末まで、「将軍の世継ぎとなりうる血のつながった男子を設ける」ことを最大の目的に、徳川260年の安泰に大きな役割を果たしました。
徳川幕府の創成期、跡目争いによるお家騒動や天下を揺るがず、戦のない世を作るための礎となるものを築いたのは、春日局の大きな功績といえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
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引用/参考文献
『国史大辞典』(吉川弘文館)