はじめに-徳善院玄以とはどんな人物だったのか?
徳善院玄以(とくぜんいん・げんい)とは、安土桃山時代の武将です。またの名を「前田玄以」と言い、信長の嫡男・信忠(のぶただ)の家臣として仕えた後、信長の孫・三法師の守り役を務めました。その後、秀吉が実権を握ると、彼の家臣となり、その実力を認められて五奉行(豊臣政権下で、政務を分掌した五人の奉行)に抜擢されます。
慶長5年(1600)の「関ケ原の戦い」では、石田三成率いる西軍側につくも、戦いには参加せず、あくまで中立の立場を保ったとされる玄以。
戦後、家康から咎められることもなく本領を安堵されていることから、政治的手腕の優れた人物というイメージがありますが、実際の徳善院玄以はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、豊臣五奉行の筆頭で、家康とも関係を築く老獪な政治家(演:村杉蝉之介)として描かれます。
目次
はじめに―徳善院玄以とはどんな人物だったのか?
徳善院玄以が生きた時代
徳善院玄以の足跡と主な出来事
まとめ
徳善院玄以が生きた時代
徳善院玄以は、天文8年(1539)、美濃国(現在の岐阜県)に生まれます。玄以が生まれる5年前には信長が、そして2年前には秀吉が、尾張国(現在の愛知県)にて誕生しています。
誰もが知る戦国武将と同時期に誕生した玄以。彼らが武将としての名声を上げるとともに、玄以もまた、家臣団の筆頭として頭角を現すこととなるのです。
徳善院玄以の足跡と主な出来事
徳善院玄以は、天文8年(1539)に生まれ、慶長7年(1602)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
信長の嫡男・信忠に仕える
徳善院玄以は、天文8年(1539)、美濃国にて生まれました。本名は宗向で、幼少期に比叡山に上って僧侶となり、天台教学(天台宗のこと)を修めたと言われています。その後、尾張国にある小松寺の住職を務めたとされます。
玄以と信長がどのようにして出会ったのかについて、詳しくはわかっていません。しかし、天正7年(1579)に信長が小松寺の本領を安堵し、諸役を全て免除したという記録が残っているため、その頃にはすでに信長と親交があったと考えられます。
そして同年の天正7年(1579)、玄以は信長の嫡男・信忠の家臣として仕えることとなったのです。
京都所司代に任命、秀吉に仕える
信忠の家臣として、彼の補佐にあたった玄以。しかし、天正10年(1582)に発生した「本能寺の変」により、信長・信忠父子は帰らぬ人となってしまいます。信忠の死を受けて、玄以は岐阜に逃れ、彼の子である三法師を保護したそうです。
信長の後継者を決定するべく開かれた「清洲会議」にて、幼い三法師を擁立することに成功した秀吉。実質的な信長の後継者となったことで、秀吉が実権を握るようになりました。同時期に、三法師を守り抜いた功績を称えられ、玄以は信長の次男・信雄により、京都所司代(京都の治安維持を目的に作られた機関)に任命されます。
信長と信忠の死後、玄以は豊臣政権下で活躍することとなるのです。
【「五奉行」の一人として活躍する。次ページに続きます】