劇中に登場した方広寺の大仏。(C)NHK

ライターI(以下I):『どうする家康』第45回では、「国家安康」「君臣豊楽」の銘文で有名な方広寺が登場しました。

編集者A(以下A):現在、方広寺と呼ばれている寺院は、劇中の時代はまだ寺号はなく、「大仏」とか「大仏殿」と呼ばれていたようです。方広寺となったのは江戸中期ですが、便宜上方広寺ということで話を進めていきたいと思います。この寺は大坂の陣のきっかけになった「国家安康」「君臣豊楽」で有名ですが、炎上した奈良東大寺大仏殿との絡みで振り返ると、もうひとつの戦国史が見えてきて面白いですね。

I:はい。

A:2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、松永弾正と三好勢の合戦の末に、奈良の東大寺大仏殿が炎上したことが描かれました。永禄10年(1567)のことです。ざっくりいえば、方広寺大仏は天下統一をなした豊臣秀吉が東大寺大仏を奈良に再建せずに京都に再建したものということになります。

I:東大寺の大仏は源平合戦が行なわれた治承4年(1181)に平重衡によって大仏殿ともども消失しています。『平家物語』はその様子を「御頭は焼け落ちて、大地に転がり、御身体は溶けて山のようになってしまった」と語っています。その後、重源という僧の勧請で大仏、大仏殿は復興するのですが、大スポンサーとなったのが源頼朝。昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、大仏開眼供養に参列するために奈良に赴いた頼朝も描かれました。後の松永弾正の合戦の際とあわせると、東大寺の大仏は二度にわたって戦火に見舞われたわけですね。

A:天下を統一した豊臣秀吉は、前述のように戦火に見舞われた大仏を東大寺で再建するのではなく、京都に新たに建造することにします。これが天下統一後の大事業になり、諸大名は競って全国各地から巨木を運ばせたといいます。ちなみに当初秀吉は、織田信長の菩提を弔う巨大寺院「天正寺」の建立を目指したそうです。なんやかんやでその計画はなくなって、実質的にその代替となったのが京都での大仏建立というわけです。

I:私は屋久島が好きで何度も足を運んでいますが、島津氏によって、なんと屋久島からも巨木が運ばれたそうです。ですから秀吉の大仏建立は、全国に動員をかけた巨大な公共工事だったということになります。

A:全国から集めた巨木をふんだんに使って建造した大仏殿は巨大だったことが知られています。しかし、大仏の開眼供養を催行する前の慶長伏見地震(1596)で大仏殿は倒壊し、大仏も破損してしまいます。秀吉は破損した大仏を修復させることはなく、解体させたそうです。

I:少し脱線しますが、秀吉は大仏を解体して、信州善光寺から「善光寺如来」を運ばせて本尊にしました。善光寺如来は武田信玄が信州から甲斐に運んだことで武田家が滅び、織田家も岐阜に運んだ後に、本能寺の変に見舞われました。秀吉もわざわざ東国から如来さまを運ばせましたが、翌年病に倒れて亡くなります。当時から「祟りの噂」がささやかれたそうですが、さもありなんです。私はこのエピソードを聞いたとき背筋が凍ったことを覚えています。

A:中世的な視点では、完全に「祟り」ととらえられたでしょうね。そして、秀吉の施策で「刀狩り」は有名ですが、回収された刀剣は大仏に流用されたというエピソードも面白いですね。

野ざらしでおおよそ100年放置された東大寺大仏。次ページに続きます

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