中関白家の最盛期を築く
正暦元年(990)、関白職に就いた道隆は、娘の定子(ていし)を一条天皇の中宮(ちゅうぐう、皇后とほぼ同格の后)につけました。定子の女房には、『枕草子』の作者として名高い、清少納言がつけられることとなります。
道隆の家系は「中関白(なかのかんぱく)家」と呼ばれ、栄華を極めました。氏長者として、華やかな時代を謳歌した道隆。しかし、中関白家の全盛期は、長続きしなかったのです。
華々しい人生を謳歌した道隆
中関白家の最盛期を築き上げた道隆ですが、長徳元年(995)、病に伏してしまいます。病の原因は、深酒による糖尿病であると言われています。弟の道長も、糖尿病が原因で亡くなったとされており、遺伝的なものもあったのかもしれません。
死を悟った道隆は、関白の座を嫡男・伊周(これちか)に譲ろうとしましたが、実現しませんでした。そして、病に倒れて間もなく、道隆は43年の生涯に幕を閉じることとなったのです。その後、弟の道兼(みちかね)が関白に任命されるも、すぐに病死してしまいます。
残された嫡男・伊周と、末弟の道長は激しい権力争いを展開。最終的に道長が勝利し、時代は道隆から道長へと移り変わっていったのです。
まとめ
名門・藤原北家に生まれ、中関白家の最盛期を築き上げた道隆。父・兼家は、優秀な長男・道隆を優遇していたという逸話が残されています。後に3代の天皇の摂政となり、栄華を極めることとなる道長にとっても、道隆の存在は脅威だったと言えるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)