御年寄として、大奥を支える

持ち前の頭脳と熱心な仕事ぶりで、13代将軍・家定の御年寄にまで上り詰めた瀧山。病弱だった家定に跡継ぎの子どもが生まれず、将軍継嗣問題が発生した際、瀧山は紀伊藩主・徳川慶福(よしとみ、後の家茂)を支持したそうです。

次期将軍候補には、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の子である慶喜も挙げられており、家定の正室・天璋院は、彼を支持していました。しかし、大奥は水戸嫌いが激しかったため、瀧山を中心とした反慶喜勢力が、慶喜の将軍職就任を阻止したのです。

安政6年(1859)、13歳という若さで将軍職に就いた家茂。瀧山は、家定に引き続き、家茂にも御年寄として仕えることとなりました。その後、家茂が病死し、15代将軍・慶喜(よしのぶ)が将軍職を継いだ際にも、御年寄として仕えます。

一方、家茂の病没後、倒幕運動が活発化し、徳川家の立場は日に日に苦しくなっていました。慶応3年(1867)、慶喜が大政奉還を受け入れると、王政復古の大号令(武家政治を廃し、天皇親政を宣言する号令)のもと、討幕軍が江戸に迫ってきたのです。

天璋院や、家茂の正室だった和宮、幕臣・勝海舟の尽力もあって、徳川家の断絶は免れ、江戸城は開城することとなります。慶応4年(1868)4月、江戸城明け渡しの際には、官軍(新政府軍)の勢いに怯えて逃げ出す幕臣がいる中で、天璋院とともに大奥に留まったとされる瀧山。大奥の御年寄として、開城の準備を見事にこなし、退去したそうです。

大政奉還図(聖徳記念絵画館蔵) 
慶喜が、幕府役人や家門大名に対して、大政奉還の伝達を行う際の様子が描かれている。

その後、瀧山がどうしていたのかについては、詳しく分かっていません。明治9年(1876)、3代にわたる将軍の御年寄として仕えた瀧山は、71年の生涯に幕を閉じることとなったのです。

まとめ

維新後にまとめられた慶喜の回想録、『昔夢会筆記』。そこには、慶喜が将軍職就任を躊躇した理由の一つに、老中以上の権力を有していた瀧山の存在があったと記されています。3代にわたる将軍に仕えることは、並大抵の実力では成し遂げられないでしょう。

瀧山は、頭脳明晰として知られた慶喜でさえも恐れるほど、突出した才能を持つ、芯の強い女性だったのではないでしょうか。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)

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