長州征伐を指揮、悔いが残る最期
将軍職に就いた家茂ですが、当時まだ幼かったため、政務を補佐する人材が必要でした。そのため、将軍後見職には一橋慶喜が、政事総裁職には福井藩主・松平慶永(よしなが)が就任することとなります。将軍として、幕政の改革を行おうとした家茂。
文久3年(1863)、将軍としては229年ぶりに上洛し、孝明天皇に拝謁しました。異国を警戒していた孝明天皇に対して、攘夷の実行を約束。さらに、攘夷祈願の賀茂社(かもしゃ)行幸にも供奉し、将軍よりも朝廷が優位であることを世間に示したのです。この時、孝明天皇は家茂の誠実さに感心し、深く信頼するようになったと言われています。
また、家茂は将軍として、自ら幕政を指揮しようとしました。当時、将軍が老中などに幕政を一任することは通例だったため、家茂は異例の将軍だったと言えるでしょう。攘夷実行の準備を始めるべく、幕府の軍艦に乗って大坂湾を視察したり、倒幕を目論む長州藩と戦った「長州征伐」に参戦したりと、自らの意思で行動していたことが分かります。
しかし、長州征伐は長期にわたって続き、幕府は次第に劣勢になっていきました。そして、二度目の長州征伐のために上洛した際、心労が重なった家茂は病に倒れてしまいます。将軍として最後まで戦った家茂ですが、慶応2年(1866)、大坂城内で21年という短い生涯に幕を閉じたのです。
心優しい将軍・家茂
若くして将軍となり、失意のうちに世を去った家茂。彼は大変誠実で心優しく、周囲から慕われていたそうです。江戸城にやってきたばかりの頃、公家出身の和宮は、幕府のしきたりに困惑することが多かったそうですが、そんな彼女に優しく接したのが、家茂だったと言われています。
和宮は、誠実で聡明な家茂に惹かれるようになり、家茂の好きな和菓子を一緒に食べながら談笑するなど、仲睦まじい生活をするようになったそうです。また、老齢の幕臣から書道を習っていた際、幕臣が失禁していたことに気付いた家茂は、わざと彼に水をかけて、ほかの幕臣に気付かれないようにしたという逸話が残されています。
まとめ
辛辣な性格で知られている勝海舟も、将軍としての家茂を高く評価していました。幕末という激動の時代に翻弄され、儚く散っていった印象の強い家茂。しかし、幕府の将来のために、誰よりも逞しく戦い抜いた知将であると言えるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)