はじめに-林羅山とはどんな人物だったのか?
林羅山(はやし・らざん)は、家康から4代将軍・家綱(いえつな)まで、長く幕府に仕えた天才肌の儒学者にして、有能な学識者、ブレーンでした。彼の広めた朱子学(しゅしがく)は幕府の官学となり、精神的支柱であり続けます。そんな羅山は、実際にはどのような人物だったのでしょうか?
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、儒学を学び博学多才、方広寺鐘の銘文を大きく問題視して大坂の陣のきっかけを作る人物(演:哲夫・笑い飯)として描かれます。
目次
はじめに―林羅山とはどんな人物だったのか?
林羅山が生きた時代
林羅山の足跡と主な出来事
まとめ
林羅山が生きた時代
林羅山は、徳川幕府の創成期を支え続けました。豊臣家滅亡へとつながる大坂の陣のきっかけを作り、その後はさまざまな法度、外交、典礼に関与。また、封建制度の根底を成す朱子学を浸透させるなど、徳川幕府の基礎を築く時代の重要な人物です。
林羅山の足跡と主な出来事
林羅山は、天正11年(1583)に生まれ 、明暦3年(1657)に没しています。その生涯を主な出来事とともに辿ってみましょう。
師匠もびっくりの秀才ぶり
林羅山は、本名を信勝(のぶかつ)といい、羅山は号(ごう=呼び名)です。天正11年(1583)、京都に生まれます。父は加賀の浪人といわれ、羅山は生後間もなく伯父に引き取られました。幼少の頃から秀才の呼び声高く、建仁寺で仏教を学びますが僧にはならずに家に戻り、読書三昧の日々を送ります。そのなかで羅山が傾倒したのが、儒学の一派である朱子学でした。
21歳で、朱子学の大家・藤原惺窩(ふじわら・せいか)に入門。羅山が提出した既読書の一覧には、440余りの書名が列挙され、儒教の経典、諸子百家や史書・地誌・兵学・本草など、多方面の漢籍が含まれていたといいます。さらには、一目で5行ずつ読み、すべて覚えている逸話もあるほどの英明ぶり。惺窩は驚き、かねてより仕官を求められていた自身の代わりに、羅山を家康に推挙しました。
方広寺鐘銘事件で豊臣側を断罪する
慶長10年(1605)、羅山は京都・二条城にて家康と対面し、駿府へ召し出されます。慶長12年(1607年)には、家康の命により剃髪して道春(どうしゅん)と称し仕えました。この年、江戸に赴き2代将軍・秀忠(ひでただ)に講書を行い、また長崎で本草綱目(ほんぞうこうもく=中国明代の薬物書)を入手し家康に献上。健康オタクと伝わる家康はおおいに喜んだことでしょう。そして、慶長19年(1614)、羅山は方広寺の鐘銘事件に対峙します。
豊臣秀頼は、父の秀吉が生前建立し、地震や火災で倒壊したままになっていた方広寺大仏殿と、大仏の再建を目指していました。慶長19年(1614)、梵鐘が完成。ところがその鐘銘の中に、「国家安康」「君臣豊楽」の二句があったことに家康は激怒します。家康の名を分断して、豊臣家の繁栄を願う、いわゆる呪詛であるというのです。
家康は京都五山の僧などに見解を聞くことに。五山の僧は、概ね「非常識ではあるが呪詛とはいえない」との結論でした。しかし、羅山だけは、「呪詛の意図あり」と断じ、銘文の前文にある「右僕射源朝臣家康公」も問題視。源=徳川家を射るものだと訴えます。結果として徳川家と豊臣家は決裂、大坂の陣へ。羅山の強硬な態度は、豊臣家滅亡のきっかけのひとつとなったのです。
【4代に渡る将軍に仕え幕政を補佐。次ページに続きます】