はじめに-織田信孝とはどんな人物だったのか
織田信孝(おだ・のぶたか)は織田信長の三男で、豊臣秀吉に敗れた後、自害の時に腹をかき切って腸を掛け軸に投げつけたという強烈な逸話が残っています。そんな信孝ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか?
史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
目次
はじめに-織田信孝とはどんな人物だったのか
織田信孝が生きた時代
織田信孝の足跡と主な出来事
まとめ
織田信孝が生きた時代
戦国時代は実力が非常に重視された時代であり、家系の権威だけで権力を維持するのは難しいものでした。織田家も信長の没後は、秀吉に取って代わられますし、甲斐の武田家も武田信玄の没後は、求心力を失って滅亡しています。
織田信孝の足跡と主な出来事
織田信孝は生年が永禄元年(1558)で、没年が天正11年(1583)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
信長の三男として生まれ、神戸家の養子になる
信孝は織田信長の三男として、永禄元年(1558)に生まれました。一説では、次男とされている信雄より出生は20日ほど早かったのですが、母の坂氏が側室であったため、信雄が次男とされたと言われています。また本能寺の変の間近まで、長男・信忠が美濃一国を、次男・信雄が南伊勢・志摩・南伊賀・東大和を領有したにもかかわらず、信孝は河曲・鈴鹿の二郡しか領有できませんでした。
永禄11(1568)年、信長は北伊勢を攻撃し、神戸城(かんべじょう)の神戸具盛(かんべ・とももり)を降伏させます。この時、具盛に子がいなかったので、信長の命を受けて信孝は具盛の養子になり、神戸信孝と名乗ります。この後、神戸家を相続することになり、神戸領は織田領になりました。
信孝は、天正2年(1574)の伊勢長島一向一揆との戦い、翌年の越前一向一揆との戦い、雑賀攻めなど、信長の主要な戦いに出陣しています。
神戸では、金箔瓦を葺く五層天守を中心とする立派な城を築き、城下町を整備して楽市とするなど、善政を敷いたことが伝えられています。また、キリスト教にも理解を示していました。
秀吉に敗れ、壮絶な最期を遂げる
天正10年(1582)の本能寺の変の時には、信孝は四国攻めのため、重臣の丹羽長秀(にわ・ながひで)とともに大坂にいました。四国攻めでは、四国平定後に讃岐国を与えることを信長に約束されていましたが、本能寺の変で信長が死んだことで、それも潰えてしまいます。
さらには、明智光秀を討つにはいい場所にいたにもかかわらず、変の一報を聞いた家臣団が大混乱し、行動することができませんでした。その後、秀吉と合流し、山崎の戦いでは、名目上ではあるものの総大将を務め、明智光秀を破ります。
【清須会議では、織田家の後継者に指名されず。次ページに続きます】