はじめに-織田信孝とはどんな人物だったのか

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する織田信孝(おだ・のぶたか、演:結木滉星)は、織田信長(演:小栗旬)の三男として生まれ、各地の一向一揆平定や四国攻めの総大将などを務めた武将です。本能寺の変の直後には羽柴秀吉(演:池松壮亮)と手を結んで明智光秀(演:要潤)を討ちましたが、その後は織田家の後継をめぐって秀吉と対立します。

この記事では、織田信孝が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。

『豊臣兄弟!』では、兄・信忠とともに信長の天下一統の力となる人物として描かれます。

織田信孝
織田信孝

織田信孝が生きた時代

織田信孝が生きたのは、父・信長が尾張の一勢力から天下統一へ向けて急速に勢力を広げていった時代でした。織田家は各地の大名や一向一揆と戦い、畿内から東海、北陸、中国、四国へと軍事行動を広げていきます。

その中で信孝は、信長の子として戦場経験を積み、北伊勢の神戸氏の養子になり、一門の一角を担う武将へと育てられました。

織田信孝の足跡と主な出来事

織田信孝は生年が永禄元年(1558)で、没年が天正11年(1583)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。

信長の三男として生まれ、神戸家の養子になる

織田信孝は永禄元年(1558)に生まれました。幼名は三七、あるいは三七郎といいます。母は坂氏で、兄の信雄とは異母兄弟でした。

信長は永禄11年(1568)に北伊勢を平定し、神戸城主・神戸具盛(かんべ・とももり)を降します。このとき、具盛に子がなかったことから、信孝はその養子となり、神戸家を継ぎました。このため「神戸信孝」とも呼ばれます。

織田信長
織田信長

一向一揆や雑賀攻めで戦功を重ねる

信孝は、天正2年(1574)の尾張・伊勢の一向一揆討伐、天正3年(1575)の越前一向一揆平定、天正5年(1577)の雑賀攻め、さらに天正6年(1578)の播州神吉城攻めや荒木村重の有岡城攻略などに参加し、戦功を立てました。

若いころから各地の重要な戦いに加わっていたことから、信孝が実戦経験豊かな武将であったことがわかります。

また、この間に従五位下侍従に任ぜられました。信長の子としての家格だけでなく、実績も伴っていたのでしょう。

四国攻め総大将として摂津へ

天正10年(1582)5月、信孝は信長から讃岐国(現在の香川県)を与えられ、四国征伐の総大将を命じられました。摂津国(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)住吉浦に赴き、織田信澄や丹羽長秀とともに出陣の準備を進めていたとされます。

四国攻めは、織田政権の次の大きな軍事行動の一つでした。その総大将に選ばれたということは、信孝が信長から相応に期待されていたことを示しています。

しかし、まさにその準備の最中に、本能寺の変が起こります。

本能寺の変、織田信澄を殺害する

天正10年(1582)6月、本能寺の変の報に接した信孝は、摂津から大坂に引き返しました。そして、明智光秀の娘婿であった織田信澄を、光秀と気脈を通じていると思って殺害します。

この判断は、当時の緊迫した空気をよく示しています。実際に信澄が謀反に加わっていた確証があったわけではなくても、光秀の縁者であること自体が危険視されたのです。

信孝の行動には、織田家を守るために迅速に疑わしい要素を断とうとした面があったとみられますが、一方で、非常時の苛烈さも感じさせます。

織田信澄
織田信澄

羽柴秀吉とともに山崎で明智光秀を討つ

その後、信孝は中国方面から急ぎ引き返してきた羽柴秀吉と合流し、天正10年(1582)6月13日の山崎の戦いで明智光秀を討ちました。

本能寺の変の直後、光秀討伐に成功したことは、信孝にとって大きな実績でした。もしここから織田家の主導権を握ることができていれば、その後の歴史は違ったものになったかもしれません。

ただ、実際に主導権を握ったのは秀吉でした。ここから、信孝は苦しい立場に置かれます。

清洲会議で織田家の後継を争う

本能寺の変後、信長の後継を決めるために開かれたのが清洲会議です。信孝は、兄の信雄と織田家の継嗣を争いました。信孝は柴田勝家と結び、自らの継承を実現しようとしたのです。

しかし、秀吉はこれを退け、信長の嫡男・信忠の子である三法師を後継とする案を通します。信孝は三法師の補佐役として岐阜城と美濃国(現在の岐阜県南部)を与えられるにとどまりました。

この結果は、信孝にとって大きな打撃だったでしょう。山崎の戦いで光秀を討ったにもかかわらず、織田家の主導権を得られなかったのです。

現在の清洲城

柴田勝家と結び、秀吉に対抗する

清洲会議後、信孝は柴田勝家と連携して秀吉に対抗します。秀吉が三法師を安土へ移すよう求めたのに対し、信孝はこれを拒み、柴田勝家や滝川一益と図って挙兵の準備を進めました。

ただし、冬の北国は雪が深く、勝家の本格的な出陣が難しかったため、当初は戦端を開くことができませんでした。そこを秀吉に先手を打たれ、天正10年(1582)12月、信孝は岐阜城を囲まれて降伏します。このとき三法師を引き渡し、母と娘を人質として和を請いました。

このあたりに、秀吉の政治的な素早さと、信孝側の苦しさがよく表れています。

再挙兵、そして自刃

それでも信孝は、翌天正11年(1583)に再び挙兵します。長宗我部元親と連携を図り、再度の抵抗を試みたのです。しかし、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れて自害すると、信孝の望みは絶たれました。

岐阜城の兵も離散し、信孝は兄・信雄の勧めに従って城を開き、尾張知多郡内海へ移ります。そして大御堂(おおみどう)寺で自刃しました。日付は5月2日説と4月29日説の2つがあります。

享年26歳、短い生涯でした。

まとめ

織田信孝の生涯は、信長の子としての力と、父の死後に訪れた急激な転落の両方をあわせ持っています。そしてその歩みは、秀吉がいかにして織田家中で優位に立ち、天下人への道を切り開いたかを考える上でも、とても重要です。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって10年以上。「戦国武将の生き字引」を目指して、「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。

note:@kyoto_monokaki Instagram:@kyoto_monokaki

肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

 

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