はじめに-前田利長とはどんな人物だったのか?
前田利長(まえだ・としなが)といえば、五大老で、しかも豊臣秀頼の後見役であったにもかかわらず、それを投げ出して「前田家存続」を優先した人物だという印象が強いかもしれません。一方で、加賀百万石の礎を築いた人物でもありますが、それにしては評価が高いとは言い難いでしょう。では、前田利長とは、実際どのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
NHK大河ドラマ『どうする家康』では、秀吉の若き頃からの友人・前田利家の長男(演・早川剛史)として描かれます。
目次
はじめにー前田利長とはどんな人物だったのか?
前田利長の生きた時代
前田利長の足跡と主な出来事
まとめ
前田利長の生きた時代
前田利長が誕生した永禄5年(1562)は、織田信長と松平元康(のちの徳川家康)が清州同盟を結んだ年でした。戦国の動乱期が続く中、利長は青年へと成長していきます。
前田利長の足跡と主な出来事
前田利長は永禄5年(1562)に生まれ、慶長19年(1614)に没しています。その生涯を、主な出来事とともに辿っていきましょう。
前田利家の長男として誕生
永禄5年(1562)1月12日、前田利家とその正室・松(芳春院)の長男として、尾張国荒子(=現在の名古屋市中川区荒子町)で誕生します。幼名は犬千代。のちに孫四郎と呼ばれ、初諱は利勝でした。天正17年(1589)に利長としています。
父・利家にしたがい、織田信長に仕えました。天正9年(1581)8月には、越前国府中(=現在の福井県武生市)が与えられます。同じ年の12月には、信長の四女である永(玉泉院)と結婚しました。こうしたことを考えると、信長からの評価は高かったことがうかがえるでしょう。
利長は、風流人でもあり、千利休の高弟として茶湯に堪能であったと言います。
秀吉に臣従
天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いでは、父とともに柴田勝家軍に味方し、羽柴秀吉軍と敵対しました。近江国柳ヶ瀬(=現在の滋賀県伊香郡余吾町)まで出陣しましたが、敗色濃厚と見て撤退。
その後は秀吉に従い、加賀国松任(4万石)に移りました。そして、天正13年(1585)越中征伐では、佐々成政を攻め、勝利。利長が、越中守山城城主となります。
天正15年(1587)、九州征伐では豊前国巌石城攻めで戦功をあげます。天正18年(1590)小田原征伐では父とともに転戦しました。また、文禄2年(1593)文禄の役では、豊臣秀次に属して京都を守護。同年10月には、居城を越中国富山に移りました。また、秀吉の死後は、父とともに豊臣秀頼の後見役となります。
【父の死後、五大老に。「家康暗殺計画」目論むも未遂に。次ページに続きます】