はじめに-金地院崇伝とはどんな人物だったのか?

墨染めの衣を身にまとった禅僧でありながら、徳川家康のもと政治に参画し辣腕をふるった金地院崇伝(こんちいん・すうでん)。黒衣の宰相(こくい/こくえのさいしょう)、怪僧などと称されてきました。では、実際の崇殿はどのような人物だったのでしょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、幕府政治の裏側で暗躍するフィクサーであり、家康を神格化する上でも大きな発言力を持つ人物(演:田山涼成)として描かれます。

目次
はじめに―金地院崇伝とはどんな人物だったのか?
金地院崇伝が生きた時代
金地院崇伝の足跡と主な出来事
まとめ

金地院崇伝が生きた時代

金地院崇伝は、足利義昭(あしかが・よしあき)が将軍になってから1年後に生まれました。同じ足利一門として将来は明るかったはずですが、幕府が滅亡したことで出家。

表舞台に姿を現すのは徳川家康が天下を取って間もなくのことです。崇伝は家康とともに270年続く徳川の世の土台を築いていきます。

金地院崇伝の⾜跡と主な出来事

金地院崇伝は永禄12年(1569)に生まれ、寛永10年(1633)に没しています。その生涯を主な出来事とともに辿ってみましょう。

足利一門から臨済宗トップへ

金地院崇伝は京都・駿府・江戸の金地院に住んだことからこう呼ばれます。また字(あざな、実名以外の呼び名)は以心(いしん)、法名は崇伝(すうでん)で、以心崇伝(いしん・すうでん)ともいわれます。

崇伝は、室町幕府幕臣の一色秀勝(いっしき・ひでかつ)の次男として京都に生まれました。一色家は足利一門で、祖父は13代将軍・義輝(よしてる)の近臣でした。しかし、室町幕府は滅亡。崇伝は、京都五山の別格本山・南禅寺に入り、玄圃霊三(げんぽ・れいさん)に師事します。このとき26歳ですから、当時としては遅い転身でした。

その後は醍醐三宝院(だいごさんぽういん)、相国寺の西笑承兌(さいしょう・しょうたい/せいしょう・じょうたい)、金地院の靖叔徳林(せいしゅく・とくりん)のもとで学び、学識を深めます。慶長10年(1605)、36歳で南禅寺の270世住職となり、臨済宗のトップの座に着きました。このとき、鷹峯(たかがみね)にあった金地院を南禅寺に移し、塔頭として再建・復興しています。

金地院(上、『江戸図屏風』)

家康のもと、外交等を担当する

この頃、関ヶ原の戦いで勝利し、江戸に幕府を開いた徳川家康は、東アジアから東南アジアへと渡航する商船に朱印状を出すことで、海外貿易の統制に着手。慶長10年、安南国(あなんこく、ベトナム北部)との間で朱印船貿易が始ました。このような外交文書を担当したのが、西笑承兌、三要元佶(さんよう・げんきつ)、そして崇伝の3人の臨済宗の僧でした。

西笑承兌像(大阪城天守閣蔵)

慶長13年(1608)、崇伝は承兌の後任で駿府 (すんぷ)に召し出され、外交の担当者として西欧諸国との折衝や外交文書の起草などに当りました。また、居寺として、駿府城内に金地院も建立しています。

崇伝はさらに才覚を発揮。伴天連 (バテレン) 追放令(宣教師追放令)をはじめ、朝廷・寺院・武家などを対象とした諸法度の草案を作るなど家康におおいに頼りにされました。

方広寺鐘銘事件と紫衣事件。次ページに続きます

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