4代に渡る将軍に仕え幕政を補佐
儒教による精神性や指導の確立を目指しながら僧形となったり、大坂の陣の口実を作るなど、羅山は御用学者と揶揄されがちですが、徳川家にとってなくてはならない優秀なブレーンでした。実際、家康、秀忠、家光、家綱と4代の将軍に仕えて幕政を補佐。学問を教えながら、古書や旧記の調査・収集、武家諸法度十九条の選定、朝鮮通信使の応接、外交文書の起草、寺社関係の裁判事務など幅広い公務に従事しました。
羅山は多くの著作も残します。正保元年(1644)には、国史として、『古事記』などの六国史(りっこくし)の記述をもとに神武天皇から宇多天皇に至る『本朝編年録(ほんちょうへんねんろく)』を家光に進呈。しかし、のちに焼失し、家綱の命で羅山の子・鵞峰(がほう)が事業を再開します。そして完成した、神代から後陽成天皇まで全310巻の『本朝通鑑(ほんちょうつうがん)』は、後世の歴史書に大きな影響を与えました。
羅山が傾倒し官学となった朱子学とは?
羅山の子・鵞峰が調査や執筆等を行ったのは、寛永7年(1630)、羅山が家光から江戸上野忍ヶ岡 (しのぶがおか)に土地を与えられて建てた、私塾・文庫と孔子廟 (こうしびょう)です。後年、神田の昌平坂 (しょうへいざか)に移されて幕府直轄の昌平坂学問所および聖堂と呼ばれ、現在の湯島聖堂の前身となりました。ここに朱子学が官学となり、代々、林家 (りんけ)が大学頭(だいがくのかみ)を務めました。
ところで、朱子学とはどういうものだったのでしょう。重要視されたのは大義名分論(たいぎめいぶんろん)。つまり、君臣や父子の別をわきまえよ、という上下関係の秩序でした。徳川幕府は、これを官学とすることで封建社会を構築していきます。
こうして儒学、なかでも朱子学の地位を確立した林羅山。明暦3年(1657)の大火で、本邸の文庫が焼失したことにショックを受けたのか、病に臥し、4日後の1月23日に没しました。
なぜ下呂温泉に羅山の像が!?
話は変わりますが、日本三名泉って知っていますか? 室町時代には有馬・草津・下呂といわれ、羅山も『詩集巻第三、紀行三、有馬山温湯』の中で、「我國諸州多有温泉其最著者摂津之有間下野之草津飛騨之湯嶋是三處也」(※下野(しもつけ)は上野(こうづけ)の誤記と思われます)と記し、3つの温泉が全国的に知られるきっかけを作りました。
下呂温泉では、平成4年(1992)、白鷺橋上には林羅山像を建立。その除幕式には、当時の林家ご当主も出席されたそうです。
まとめ
4代に渡る将軍に仕えた林羅山は、民間の学問であった儒学、特に自らが傾倒した朱子学を幕府に認められた学問=官学にまで高めます。そのことは儒学者の地位を高めることともなり、朱子学は徳川の世の精的な支柱となりました。林羅山は儒学者として、自らの信じる道を生き抜いた人物だったといえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/深井元惠(京都メディアライン)
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