三重大の藤田達生教授と盟友の歴史作家安部龍太郎氏。弘前城取材の際の写真。

ライターI(以下I):『どうする家康』における徳川家康(演・松本潤)と石田三成(演・中村七之助)のやり取りがじわじわと胸に迫ってきます。

編集者A(以下A):松本潤さんと中村七之助さんはプライベートでは昵懇の間柄だそうです。頭は切れるがどうも人望がないという石田三成と、毛利輝元(演・吹越満)や上杉景勝(演・津田寛治)らに「狸」と呼ばれる家康との、視聴者を交えた形で「化かし合い」が続いているようで、じわじわくるというIさんの意見に賛成です。

I:さて、今週は、本編をより楽しむための「裏設定」的な歴史ネタを紹介しましょう。

A:秀吉による小田原北条氏の平定後に、実は東北地方で天下統一前最後の戦いが繰り広げられました。奥羽の諸大名が中央の実力者と連絡を密にとりながら、お家の存続のために努力していたことがわかっています。石田三成と特別な関係を保っていた、本州北端の大名・津軽為信を事例にして紹介したいと思います。三重大学の藤田達生教授の著書『戦国秘史秘伝』から適宜引用します。

九州以降の平定戦は、豊臣領とは直接境界を接しない遠国の戦国大名領を対象とするものとなった。九州・関東・奥羽における平定に至る政治過程と強制的な軍事動員からは、豊臣政権の独善的かつ好戦的な本質が、それまでの統一戦以上に露わとなった。

これに関連して、恭順の意を表し臣従した戦国大名においてさえ、改易されたり本領を大幅に削減されたり、自力で獲得して以来、長年にわたって知行していた所領を剥奪された者がいたことを見過ごしてはならない。

たとえば、秀吉の天下統一事業の掉尾を飾った奥羽仕置では、新たに得た広大な所領に蒲生氏郷以下の直臣大名を配置し、豊臣蔵入地を設定したのである。文禄年間の石高でみれば、蒲生領は九十一万石で、奥羽の全石高一九九万石の実に四六パーセントを占めていた。まさしく、平定戦の本質は秀吉による領地没収戦争だったといってよいだろう。

奥羽では、秀吉が天正十四年(一五八六)に停戦令を発した後も大名間の戦闘が継続していた。この時期、津軽氏をはじめ安東・相馬・岩城・蘆名・白川の各氏は石田三成や増田長盛を、南部氏は前田利家を、最上氏は家康を、伊達氏は浅野長吉(後の長政)や前田利家をというように、諸大名は様々な人脈を駆使して豊臣政権の有力者との関係を築き、それを奥羽における自家の地歩確立のために積極的に利用しようとしていた。

会津の蘆名義広に注目しよう。彼は、天正十三年には豊臣政権に接近しており、上杉景勝を介して三成との結びつきをもっていた。その結果、蘆名氏には軍勢派遣や軍事物資の援助さえおこなわれた。それにもかかわらず、天正十七年六月の摺上原(すりあげはら)の合戦では伊達政宗に敗退してしまう。

その直後にあたる七月二十六日付で、三成は蘆名氏重臣金上盛実に対して、兵粮や鉄炮・玉薬などの軍事物資の援助をおこない、蘆名氏の旧領回復をほのめかして戦争継続を煽動する。このような動きが、秀吉の関東・奥羽への遠征を実現させることになる。

九州平定までは、毛利氏・長宗我部氏・島津氏など戦闘を交えた西国の大大名の意向がある程度尊重され、彼らの本領安堵は結果として許されたが、関東・奥羽国分では北条氏を改易したように、そのようにはならなかった。

この背景には、政権中枢にあった三成や長吉らの人脈が、家康ら有力大大名に比肩しうる勢力として、秀吉の政権運営に大きな影響力をもつようになったことが指摘できる。豊臣政権の専制化によって、平定後の大名配置のありかたが恣意的・強権的なものとなってゆくのである。

このような豊臣政権の実情を鋭く観察した津軽為信は、政権中枢の人物として急成長した石田三成と太いパイプを結ぶことで、津軽の独立を勝ち取ったのである。その後、弘前藩と三成との縁(えにし)は、徳川の世になっても紡がれていくことになる。

A:弘前藩と三成の縁(えにし)には家康の思惑も絡んで、後の驚愕の人間模様が繰り広げられます。詳細は次回以降に展開するとして、北端の大名・津軽為信について触れた箇所を『戦国秘史秘伝』から抜き出しました。

為信の政治センスは、抜群というほかない。天正十八年(一五九〇)三月には、相模小田原で陣中の豊臣秀吉に電撃的に謁見して津軽三郡領有の許可を得たのだ。翌天正十九年の九戸政実の反乱に際して、秀吉は軍令状を為信に発給するが、宛所として「津軽右京亮」と記している。これが「津軽」名字の初見であるが、ここで正式に南部氏からの独立を公認されたとみてよい。

その後の為信の行動も、目を見張るものがあった。文禄元年には、はるばると朝鮮出兵の基地・肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に行き秀吉と謁見する。翌文禄二年には上洛し、正式に津軽を安堵されたばかりか、近衛家に接近して牡丹の家紋と藤原姓を名乗ることが許される。中央での政治工作と情報収集にも、まったく抜かりがなかった。

I:三成と津軽家、そして徳川家の間で繰り広げられた人間模様は、ドラマにしても面白そうですよね。

●編集者A:月刊『サライ』元編集者(現・書籍編集)。歴史作家・安部龍太郎氏の『日本はこうしてつくられた3 徳川家康 戦国争乱と王道政治』などを担当。『信長全史』を編集した際に、採算を無視して信長、秀吉、家康を中心に戦国関連の史跡をまとめて取材した。

●ライターI:三河生まれの文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。『サライ』2023年2月号 徳川家康特集の取材・執筆も担当。好きな戦国史跡は「一乗谷朝倉氏遺跡」。猫が好き。

構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり

 

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