桶狭間古戦場跡に立つ信長像。

大河ドラマ『どうする家康』第1回では、桶狭間の合戦で今川義元(演・野村萬斎)の首を獲った織田信長(演・岡田准一)が、その首を放り投げるシーンが登場した。信長の残忍性を印象付けるための演出だったと思われるが、実際のところはどうだったのか。三重大学の藤田達生教授の『戦国秘史秘伝 天下人、海賊、忍者と一揆の時代』から抜粋してリポートしたい。

清須城に帰還した信長は、翌日に首実検をおこなった。従軍した今川方の同朋衆(時宗などの僧侶で将軍や大名に近侍した)が捕まえられて引き出された。信長は彼に義元の討ち死に前後の様子を尋ね、多くの首のなかから旧知の武将を見つけ出し、姓名を書き付けさせた。

注目するべきは、義元に対する信長の手厚い供養である。首を同朋にもたせて駿府に送り返したが、義元の供養のために義元塚を築き千部経を読経させたのである。義元塚は、須ヶ口すなわち清須城下への南入口に造立されたが、現在は清須市の正覚寺に移されている。なお義元に関わる塚は、その他に豊川市の大聖寺に胴塚が、西尾市の東向寺に首塚がある。

続いて、有名な信長所蔵の義元の愛刀「義元左文字」(重要文化財、建勲神社所蔵)の由来が記されている。元来は、三好政長が所持したもので(故に「宗三左文字」とも)、それを武田信虎に贈り、信虎は息女(定恵院)が今川義元に嫁ぐ折に持たせたというものである。信長は、この太刀を磨上げて打刀とし、中子の表には「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」、裏には「織田尾張守信長」と金象嵌をいれた。

鳴海城に置かれていた岡部元信は、敗戦後も抵抗し続け、信長が差し向けた部隊をことごとく撃退し、義元の首と引き換えに開城を申し入れたという。ただし、先述したように同朋衆に持たせていたことから誤りであろう。強く抵抗したから退去が許されたようであるが、駿府への帰還途次に刈谷城主の水野信近を討ち取っている。

以上、関係史料が少ないため、これまでもっとも依拠されてきた『信長公記』首巻の該当個所から、桶狭間の戦いの復元を試みた。ここで、あらためて信長の勝因を考えてみたい。それはなんと言っても、義元の本陣を正確に知っていたこと。そして、満潮になる前に桶狭間山の丘陵部に到達していたことに尽きる。

よもや退路を断ってまで信長が急襲するはずなどないとみていた義元の慢心を衝いたことについては、強行軍を得意とする信長らしい戦略である。たとえば、天文二十三年(一五五四)の今川方の村木城(愛知県東浦町)攻めにおいて、緒川城の水野信元を救援するために、強風をものともせず熱田から二〇里の海路をわずか一時間で緒川に渡海したことが想起される。

義元の最大の敗因は、予断にもとづく慢心というべきであろう。常識的な読みのもと行軍しているが、信長にはそれが通じなかった。確かに豪雨が命取りになったが、それとて信長の予想の範囲にあったのかもしれない。信長の大勝利は、常識を覆した果敢な行動力に、集中豪雨という偶然が味方したことがもたらしたものだった。

『どうする家康』では、義元の首を放り投げた織田信長だが、実際には、義元の首を手厚く遇し、供養し、塚を築くなど、礼を以て接していたことがわかる。

構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり


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