血縁関係にあった豊臣秀吉の重臣だった清正
加藤清正(かとうきよまさ・1562-1611)といえば、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で活躍し虎退治をした逸話がよく知られている。領地だった熊本では、その善政によって今なお「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれ篤(あつ)く信仰されている英傑だ。
血縁関係にあった豊臣秀吉の重臣だった清正は、石田三成らと不仲だったため秀吉の死後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍として戦った。
慶長16(1611)年、清正は秀吉の恩に報いようと、二条城で豊臣秀頼と徳川家康の会見を成功させるが、その直後、熊本へ戻る船中で発病し50歳で死去。この死因には、家康による毒殺という俗説もある。現在上演されている時代物の役名で清正は、「加藤正清」と、ほぼ実名のまま。『絵本太功記』、『祇園祭礼信仰記(ぎおんさいれいしんこうき)』においては、秀吉の忠臣として登場する脇役だが、文化4年(1807)に初演された『八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)』は正清が主役で、生前の清正公を彷彿(ほうふつ)とさせる姿で現れ、豪快な生き様を見せてくれる。
正清は二条城で北条時政(徳川家康)に毒酒を飲まされる。その後、毒の効き具合を時政の家臣が窺(うかが)うため正清の船を偵察するが、正清は船上で高らかに笑い健在ぶりを示す。城に戻った正清は自室に籠もり死期を悟ると、甲冑(かっちゅう)に身を固め高楼に登り「南無妙法蓮華経」の旗印を手に七字の妙法を唱え続ける。舞台いっぱいの御座船(ござぶね)や、熊本城を彷彿とさせる本城の道具立ても豪華で、身の丈六尺三寸(約190cm)だったという清正公の超人的な偉丈夫(いじょうふ)ぶりが存分に伝わる、時代物中の時代物だ。
文/岡田彩佑実
『サライ』で「歌舞伎」、「文楽」、「能・狂言」など伝統芸能を担当。