この戦いの内容と結果
挙兵した三成は、家康の老臣・鳥居元忠が守る東軍の拠点・伏見城(=現在の京都市)を攻めます。こうした三成の挙兵は、家康の狙い通りでした。7月24日、江戸を過ぎ、会津へ向かっていた家康は下野国小山(=現在の栃木県小山市)で三成挙兵の報を受け取ると、すぐに軍議を開き、三成と戦うことを決めるのです。
8月1日、西軍は十数日かけて、ようやく伏見城を攻略。その後、大垣(=現在の岐阜県大垣市)へと進みます。
一方、東軍は、福島正則、黒田長政、浅野幸長、山内一豊ら豊臣恩顧の大名が先発。軍監には、井伊直政、本多忠勝の両将がつきました。東海道を西上し、8月中旬には尾張(=現在の愛知県)に達します。
家康は下野国から一度江戸へ戻り、徳川秀忠、本多正信、榊原康政らを中山道から進発させました。しかし、秀忠軍は、信州上田(=現在の長野県上田市)で真田昌幸に進撃を阻まれます。
8月23日、東海道を行く井伊直政・本多忠勝・福島正則ら東軍は、西軍・織田秀信(信長の孫)の守る岐阜城を攻略します。
9月1日、岐阜城陥落の報を受けた家康は、江戸をいよいよ発ちます。14日、美濃赤坂(=現在の岐阜県大垣市)に着陣。三成の居城・佐和山城(=現在の岐阜県彦根市)を攻略し、大坂に向かうことを決めたという噂を流すのです。
この報に触れた三成らは、激しい雨の中、兵を返し関ヶ原に布陣。東軍を待ち構えました。
開戦は、15日の午前7時過ぎ。両軍の兵力はともに8万余だったと言われていますが、西軍は東軍に内通していたものが多く、実際に戦闘に参加したのはおよそ3万5千程度だったそうです。そんな中でも、西軍は善戦し、午前中は勝敗が決しませんでした。
家康は機嫌の悪い時、爪を噛む癖があったそうです。この癖は関ヶ原の戦い中にも見られ、午前中は爪を噛んでばかりだったとか。そして午後、内通しながらも去就を明らかにしない小早川秀秋に対して厳しい催促をし、ようやく寝返らせました。この時の有名な逸話として、「業を煮やした家康が、小早川陣営に鉄砲を撃たせた」というものがあります。
寝返った秀秋が、大谷吉継隊の側背に攻撃を仕掛けたのを境に、西軍は総崩れ。午後4時頃、東軍の大勝利で幕を閉じました。
「関ヶ原の戦い」、その後
敗走した三成は捕らえられ、小西行長・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らと共に、京都六条河原で処刑されました。
西軍総大将であった毛利輝元は安芸など10か国120万石から周防・長門の2か国36万石に大減封、上杉景勝も会津120万石から米沢30万石に大減封されたのです。このほかにも、西軍に参加した諸大名は取潰し・減封と厳しい処分を受けました。
家康の勝利後、豊臣家は全国にあった蔵入地を没収され、摂津・河内・和泉の約70万石の一大名に転落します。
こうして徳川家康が、事実上、全国の支配者となったのです。
まとめ
ほぼ全国の大名が巻き込まれた大戦・関ヶ原の戦いは、家康にとって一世一代の大勝負でした。自らの家臣ではなかった豊臣恩顧の大名たちから支持されたことが、勝利の大きな要因だったとも言えるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/京都メディアライン
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)