はじめに-徳川家康の「小牧・長久手の戦い」とはどんな戦いだったのか
小牧・長久手の戦いとは、天正12年(1584)に、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄(おだ・のぶかつ)連合軍が衝突した合戦のことです。
織田信長亡き後、秀吉は権勢を強めて事実上の後継者になっていました。それに反発する信長の次男・信雄と家康は利害が一致して手を組みます。
小牧・長久手にて戦闘があったものの、決戦が行われることはなく、両陣営がにらみ合う膠着状態が長く続きました。この戦いで、家康は秀吉に対して軍事的勝利を収めるものの、信雄が秀吉と単独で講和を結んだため、政治面では秀吉が勝利を収めることになります。
目次
はじめに-徳川家康の「小牧・長久手の戦い」とはどんな戦いだったのか
「小牧・長久手の戦い」はなぜ起こったのか
関わった人物
この戦いの内容と結果
「小牧・長久手の戦い」の後
まとめ
「小牧・長久手の戦い」はなぜ起こったのか
本能寺の変で信長が家臣の明智光秀(あけち・みつひで)によって討たれた後、光秀を倒した秀吉は権勢を強め、事実上の後継者となります。天正11年(1583)の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで、秀吉は、柴田勝家(しばた・かついえ)を破り、信長の三男・信孝(のぶたか)を自害させました。さらには、大坂城の築城に取り掛かるなど、天下人としての存在感を示していたのです。
しかし、家康と信長の次男・信雄は、そんな秀吉のことを快くは思っていませんでした。家康は秀吉が懐柔しても従おうとはせず、信雄は後継者の地位を秀吉に奪われたこともあって不満を抱いていたのです。
秀吉は切り崩しのために、まず信雄の3人の家老と内通します。ところが、信雄はこの家老たちを処罰してしまいました。これによって、秀吉と信雄との対立は決定的なものになります。単独では秀吉に対抗できなかった信雄は、家康を頼ります。家康にとっては、主君の遺児に反旗を翻す逆臣を討つという大義名分ができることになりました。
こうして、家康・信雄連合対秀吉という構図が成立するのでした。
関わった人物
次に、小牧・長久手の戦いにおける主要な人物について紹介します。
家康・信雄側
・徳川家康
三河の小大名・松平氏に生まれ、幼年時代は今川氏の人質となります。信長の盟友だったこともあり、信長の家臣だった秀吉が天下を取ることに反発しました。
・織田信雄
信長の次男。信長の後継者としての地位を奪われたことに不満を持っています。
・榊原康政(さかきばら・やすまさ)
徳川四天王の一人。小牧・長久手の戦いでは、秀吉を糾弾する檄文を書いて、秀吉を激怒させたと言われています。
秀吉側
・羽柴秀吉
信長亡き後の事実上の後継者として頭角を現します。天下統一まであと一歩のところで、それに反発する家康・信雄と戦うことに。
・池田恒興(いけだ・つねおき)
古くから信長に仕えていました。小牧・長久手の戦いでは秀吉側につきますが、最後は戦死してしまいます。
・羽柴秀次(はしば・ひでつぐ)
秀吉の甥。小牧・長久手の戦いでは、三河攻めの大将を務めるも、榊原康政による急襲で敗走を余儀なくされます。
【この戦いの内容と結果。次ページに続きます】