はじめに-浅野長政とはどんな人物だったのか?
浅野長政(あさの・ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将です。信長の家臣・浅野長勝の婿養子になり、信長に仕えるようになります。その後、彼の命で秀吉の与力を務めることとなりました。
長勝の婿養子になったことで、秀吉と姻戚の関係になった長政。そのこともあってか、秀吉からの厚遇を受け、五奉行にも任命されるなど、長政は豊臣政権下で出世していくこととなりました。
秀吉の「朝鮮出兵」には大反対したという逸話が残されており、誰に対しても自分の意見を述べることができる人物というイメージがありますが、実際の浅野長政はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、藤吉郎時代から秀吉に仕える、五奉行の最古参(演:濱津隆之)として描かれます。
目次
はじめに―浅野長政とはどんな人物だったのか?
浅野長政が生きた時代
浅野長政の足跡と主な出来事
まとめ
浅野長政が生きた時代
浅野長政は、天文16年(1547)に生まれます。長政が生まれた時期は、戦国時代の真っ只中にあたります。後に、数多くの戦国武将の中から、尾張国(現在の愛知県)の信長が、頭角を現すことに。長政は、天下統一を目指す信長の家臣になり、武将として生きていくこととなったのです。
浅野長政の足跡と主な出来事
浅野長政は、天文16年(1547)に生まれ、慶長16年(1611)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
信長、秀吉に仕える
浅野長政は、天文16年(1547)、尾張国の武将・安井重継(しげつぐ)の子として生まれます。はじめは「長吉(ながよし)」という名前でしたが、後に長政に改名しています。長男として生まれた長政でしたが、母の兄にあたる浅野長勝に男子がいなかったことから、婿養子として引き取られることとなりました。
その後、長勝の養女・ややと結婚し、浅野家の家督を継いだ長政。長勝が、信長の弓衆(戦国時代における役職)だったことから、長政自身も信長に仕えるようになりました。信長の命で秀吉に仕えるようになってからは、生涯を通して彼を支えることとなります。
天正元年(1573)、「小谷城攻め」の功績により、近江で120石を与えられた長政。天正10年(1582)には、京都奉行に任命され、前田玄以(げんい)とともに、禁裏御領や門跡領などの複雑な問題を処理しました。また、太閤検地の始まりとされる、山城国検地の奉行も務めており、豊臣政権を陰ながら支えていたと言えるでしょう。
天正11年(1583)の「賤ケ岳の戦い」では、その功績を称えられ、近江2郡・2万300石と、坂本城・大津城(滋賀県大津市にあった城)を与えられるなど、秀吉の主要な戦においても活躍しました。天正15年(1587)の「九州征伐」でも戦功をあげ、若狭小浜8万石の国持大名へと成長した長政。有能な家臣として、秀吉から重用されていたのが分かります。
長政と秀吉は、姻戚の関係にあたります。長政の養父・長勝は、後に秀吉の正室となる寧々(ねね)も、養女として育てていたからです。そのため、秀吉は長政を厚遇するようになったのかもしれません。
【豊臣政権下で活躍、五奉行の一人になる。次ページに続きます】