はじめに-西笑承兌とはどんな人物だったのか?

西笑承兌(さいしょう・じょうたい)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、相国寺の禅僧を務めた人物です。僧侶でありながら時の政権との関わりが深く、「黒衣の宰相」と呼ばれていました。

対外交渉をもって、秀吉や家康に仕えた西笑。秀吉の「朝鮮出兵」を後押ししたとされ、黒幕的な一面もあるように感じられますが、実際の西笑承兌はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、秀吉の政治顧問や外交役を務め、のちに家康にも仕えることとなった臨済宗の僧(演:でんでん)として描かれます。

目次
はじめに-西笑承兌とはどんな人物だったのか?
西笑承兌が生きた時代
西笑承兌の足跡と主な出来事
まとめ

西笑承兌が生きた時代

西笑承兌は、天文17年(1548)に生まれます。西笑承兌が生まれた5年後には、武田信玄と上杉謙信が5回に渡って争った「川中島の戦い」が勃発しています。群雄割拠の覇権争いが続いた時代。西笑は、臨済宗の僧として活動するかたわら、秀吉や家康などの武将とも深く関わっていくこととなったのです。

西笑承兌画像(大阪城天守閣蔵)

西笑承兌の足跡と主な出来事

西笑承兌は、天文17年(1548)に生まれ、慶長12年(1607)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

相国寺に入寺、鹿苑僧録を務める

西笑承兌は、天文17年(1548)、京都に生まれたと言われています。西笑が生まれた京都は当時、禅宗が盛んでした。禅宗の一派で、唐代の僧・臨済を開祖とする臨済宗が、鎌倉時代に日本にも伝来し、その後、武家や皇室の帰依により、禅宗の寺院は次々建立されていきます。寺院建立の中心地となったのが、鎌倉と京都だったのです。

室町時代に入り、臨済宗の僧・夢窓疎石(むそう・そせき)が幕府の庇護を受けると、禅宗の寺院は「五山十刹」(ござんじっさつ、朝廷・幕府が定めた禅宗官寺の寺格)に含まれるようになりました。新しく定められた五山十刹の中核を担った寺院の中には、相国寺(しょうこくじ)も含まれています。

夢窓疎石像 無等周位筆 自賛(14世紀、妙智院蔵、重要文化財)

禅宗が盛んだった京都に生まれ、宗教の影響を色濃く受けていたと考えられる西笑。天正12年(1584)に、相国寺に入寺し、五山十刹寺院を統轄する鹿苑僧録(ろくおんそうろく)を務めるなど、僧侶として出世していったのです。

豊臣政権を陰ながら支え、秀吉の「朝鮮出兵」のきっかけを作る。次ページに続きます

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