はじめに-浅野長政とはどんな人物だったのか?

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する浅野長政(あさの・ながまさ、演:大地伸永)は、豊臣秀吉(演:池松壮亮)の妻・寧々(演:浜辺美波)の義弟であり、五奉行の一人として豊臣政権を支えた武将です。戦場での働きに加え、兵糧、蔵米、検地、蔵入地支配など、政権運営の実務に深く関わった人物として知られています。

一方で、秀吉の「朝鮮出兵」には大反対したという逸話が残されており、誰に対しても自分の意見を述べることができる人物でもあったようです。実際の浅野長政はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。

『豊臣兄弟!』では、寧々の妹・やや(演:増井湖々)の入り婿となり、浅野家の家督を継ぐ人物として描かれます。

浅野長政
浅野長政

浅野長政が生きた時代

浅野長政が生きたのは、織田信長のもとで勢力を広げた武将たちが、やがて豊臣秀吉のもとで全国統一を進め、さらに徳川家康の時代へ移っていく大きな転換期でした。

この時代には、合戦で武功を立てるだけでなく、兵糧を整え、検地を進め、蔵入地を管理し、新たに従った大名たちを統制する力が欠かせませんでした。長政は、そうした豊臣政権の「実務」を担った人物です。

さらに長政は、秀吉の正室・寧々と義姉弟の関係にあり、豊臣家に近い立場にありました。その近さを背景に信任を得た一方で、一国を任される大名としても成長していきます。

浅野長政の足跡と主な出来事

浅野長政は、天文16年(1547)に生まれ、慶長16年(1611)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

尾張に生まれ、浅野家の養子となる

浅野長政は天文16年(1547)、尾張国(現在の愛知県西半部)春日井郡北野に生まれました。初名は長吉です。実父は安井重継(やすい・しげつぐ)、母は浅野長詮(あさの・ながあきら)の娘とされます。

その後、織田信長の弓衆であった浅野長勝(あさの・ながかつ)の養子となり、長勝の娘・ややを妻としました。長勝の養女で、のちの豊臣秀吉夫人・寧々とは義姉弟の関係にあたります。

寧々(北政所)

信長に仕え、のちに秀吉のもとへ

長政ははじめ織田信長に仕えましたが、早くから木下秀吉の下に属したといわれています。天正元年(1573)12月に小谷城攻めの功績により120石を与えられて以降、秀吉の出世とともに近江(現在の滋賀県)・播磨(現在の兵庫県南部)・山城(現在の京都府南部)などで知行を得ていきました。

秀吉の子飼いの武将とは少々異なりますが、親族出身の有力奉行として、秀吉の非常に近い立場にいた人物だといえるでしょう。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

京都奉行となり、豊臣政権の実務を担う

天正11年(1583)には賤ヶ岳の戦いの功績を称えられ、近江国大津・坂本で2万300石を領しました。その翌年、長政は杉原家次のあとを受けて京都奉行となります。

このころから長政は、政権の実務を担う奉行として存在感を強めていきます。『国史大辞典』(吉川弘文館)によれば、近江大津・坂本の城将を務める一方、豊臣氏蔵入地の代官も兼ねていたようです。

天正15年(1587)には九州征伐で戦功をあげ、若狭(現在の福井県南西部)一国を与えられ、小浜城主となりました。翌年、従五位下弾正少弼に叙任されています。

小田原征伐と奥羽検地

天正18年(1590)の小田原征伐では、長政は岩槻など北条氏の支城攻略に従いました。岩槻・鉢形・下総諸城などを落としましたが、秀吉の軍略に背くところがあって叱責されたこともあったようです。

その一方で、同年の奥羽検地には石田三成、大谷吉継らとともに奉行として参加しました。さらに翌年の九戸政実(くのへ・まさざね)の乱にも羽柴秀次の軍奉行として従軍しています。

文禄・慶長の役と、秀吉への諫言

文禄元年(1592)の朝鮮出兵では、長政は石田三成、増田長盛とともに渡海して軍事を監督しました。ただし、この時、長政は肥前(現在の佐賀県及び壱岐・対馬を除く長崎県)名護屋で秀吉の朝鮮渡海には三成と意見を異にして強く反対したといわれています。

豊臣政権の中枢にありながら、秀吉の意向にただ従うだけではなく、現実的な判断から異議を唱えたことがうかがえます。

結果的に、文禄・慶長の役は豊臣政権衰微の遠因にもなりました。

名護屋城跡の陣跡配置図では秀吉の近くに「浅野長政」の名が見える(赤枠で囲んだ部分)。

五奉行として秀頼擁立に関わる

文禄2年(1593)には甲斐(現在の山梨県)一国22万5,000石へ移封されました。この甲斐移封は、長政が一国支配を任される大名へ成長していたことを示しています。しかも伊達政宗、南部信直、宇都宮国綱らを与力とし、豊臣政権の奥羽・関東支配の一翼を担いました。

慶長3年(1598)、長政は五奉行の一人となります。秀吉の晩年には、秀頼擁立のため重い責任を担いました。

また、同じころ九州博多へ下り、朝鮮出兵将士の撤収にも尽力しています。長政は、豊臣政権の最終段階においても、軍事・行政の両面で重要な役割を果たしていたのです。

石田三成らと立場を異にし、家康に近づく

長政は姻戚出身の奉行として豊臣家からは重用されつつも、前田利家や徳川家康に近く、石田三成や増田長盛らの集権化を志向する吏僚とは立場を異にしていました。

実際、長政は早くから徳川家康と親交がありました。そのため、秀吉没後には石田・増田一党の反感を買い、慶長4年(1599)には武蔵(現在の東京都と埼玉県、および神奈川県の川崎市と横浜市)府中に蟄居せざるをえなくなります。

豊臣家中の有力奉行でありながら、政争の中では三成らと距離を置き、家康寄りの立場を取った。これが長政の後半生の大きな特徴でした。

関ヶ原の戦いと晩年

関ヶ原の戦いでは、長政は家康方に属し、徳川秀忠に従って美濃国(現在の岐阜県南部)大井へ出兵しました。戦後は江戸に住み、慶長11年(1606)には常陸国(現在の茨城県域の北・東部)真壁・筑波両郡の内5万石を与えられます。さらに慶長14年(1609)には近江神崎郡5,000石の領知も許されました。

そして慶長16年(1611)4月7日、江戸で没しました。65歳でした。高野山悉地院(こうやさんしっちいん)に葬られています。

まとめ

浅野長政は、秀吉の姻戚という立場を足がかりに大きく出世した人物でした。しかし、その評価はそれだけにとどまりません。江戸時代の雑書によれば、旧領の甲斐や播磨では、領民からその遺徳を慕われていたといいます。

また、関ヶ原の戦いで同じ陣営に立った徳川家康とは、囲碁を楽しむほど親しい間柄だったとも伝えられています。長政の死後、家康が囲碁をやめたとされる話からも、二人の関係の深さがうかがえます。

自分の考えを持ち、状況を見極めながら行動した浅野長政。そんな彼の実務能力や人柄に、家康もまた信頼を寄せていたのかもしれません。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。

note:@kyoto_monokaki Instagram:@kyoto_monokaki

肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

 

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