豊臣政権下で活躍、五奉行の一人になる

豊臣政権下で、数多くの功績をあげた長政。文禄元年(1592)から始まった「朝鮮出兵」の際、その戦功を称えられ、甲斐国(現在の山梨県)22万石を与えられました。一方で、秀吉自らが渡海して戦うと言った際には、大反対したという逸話が残されています。

家康含む家臣団の前で、自らが渡海すると力説する秀吉に対し、「狐に憑かれているから、そのような馬鹿げたことを言い出すのでしょう」という旨の発言をしたそうです。これには秀吉も激怒したそうですが、これ以降、自ら渡海するとは言わなくなったとされます。

家臣である長政からの厳しい指摘を許容することができるほどに、秀吉は彼を信頼していたと言えるでしょう。その後、長政は五奉行(政務を担当した5人の奉行)の一人に任命されました。

文禄の役『釜山鎮殉節図』 
左に密集しているのは、上陸した日本の軍船。朝鮮出兵の際、長政は軍監として渡海している。

「関ケ原の戦い」と、静かに迎えた最期

「朝鮮出兵」の際、渡海して戦っていた長政。同じく、軍監(軍事の監督をする職)として渡海していた石田三成と対立することに。秀吉の死後、三成との対立が決定的なものとなり、長政はかねてより親交のあった家康に味方するようになりました。

ところが、浅野長政、土方雄久、前田利長らが「家康暗殺」を計画したものの、五奉行のひとり増田長盛により家康に密告され、未遂に終わったという出来事があったようです。

五奉行の一人で、西軍に与していた増田長盛(ました・ながもり)は、長政の動きを警戒し、家康の暗殺を企てているという濡れ衣を着せようとしたともいわれます。これにより、長政は息子の幸長(よしなが)に家督を譲り、隠居することとなったのです。

表舞台から姿を消した長政でしたが、慶長5年(1600)の「関ケ原の戦い」では、幸長とともに東軍に与して戦っています。その功績を称えられ、紀伊国(現在の和歌山県)37万6500石が与えられることに。しかし、長政自身は関東に移り、慶長16年(1611)、65年の生涯に静かに幕を閉じました。

まとめ

姻戚にあたる秀吉のもとで、大出世を遂げた浅野長政。「関ケ原の戦い」でともに戦った家康とは、一緒に囲碁をするほど親しかったと言われています。長政が没したことで、家康は囲碁をしなくなったそうです。

自分の意思をしっかり持って行動できる長政に対し、家康も心を開いていたのかもしれません。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)

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