豊臣政権で活躍、五大老の一人になる

激戦の末、上杉氏の後継者になった景勝。天正10年(1582)、信濃国(=現在の長野県)北4郡を領し、その4年後には、上洛して秀吉に仕えることとなりました。さらに天正15年(1587)、越後国(=現在の新潟県)を統一し、佐渡も領有することとなります。

勢力を拡大する一方で、天正18年(1590)の「小田原攻め」や、文禄元年(1592)の「朝鮮出兵」にも参戦し、豊臣政権の大名として、秀吉を支えています。慶長3年(1598)、会津(現在の福島県西部)への転封を命じられ、景勝は120万石を有する大大名へと成長することに。

転封に伴い、景勝は豊臣政権の最高顧問・五大老の一人に任命されました。五大老に選ばれたことで、景勝は有力大名として一層注目されることとなったのです。

家康と対立、「関ヶ原の戦い」勃発

秀吉の死後、景勝は家康と対立することに。景勝の重臣・直江兼続(なおえ・かねつぐ)が、石田三成と親しく、景勝自身も交流があったことなどが理由として考えられています。「関ヶ原の戦い」が始まる前、自身の命に背いた景勝を討つべく、家康が会津に向かうなど一触即発の空気が漂っていました。

一説では、兼続が家康を挑発する文書を送ったことが原因であると言われていますが、真相については分かっていません。会津に向かう途中で、三成が挙兵したため、家康は慌てて引き返したそうです。三成の挙兵を受け、景勝も西軍に与して戦いますが、本戦で三成が敗北したことで、景勝は家康に降伏せざるを得なくなってしまいました。

兼続とともにすぐに降伏したことで、景勝は一命を取り留めたのです。

長谷堂城を攻撃する直江兼続(『長谷堂合戦図屏風』より) 
「関ケ原の戦い」の際、景勝は重臣・兼続とともに、東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦った。

米沢城で晩年を過ごす

景勝が直接家康に謝罪したことで、上杉氏の存続は正式に認められることとなりました。しかし、出羽米沢(現在の山形県東南部)30万石に減封されるなど、それまで所有していた広大な領土のほとんどを没収されてしまいます。

景勝は米沢城(現在の山形県米沢市にあった城)で余生を過ごし、元和9年(1623)、69年の生涯に幕を閉じました。

まとめ

激しい後継者争いに見事勝利し、豊臣政権下で大出世を遂げた上杉景勝。米沢城に移った後は、米沢藩初代藩主も務めています。家康が景勝を処分しなかった理由の一つとして、名将・上杉謙信の血を引く景勝の実力を、敵ながらも認めていたからと考えられるかもしれません。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)

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