ライターI(以下I): 秀吉(演・ムロツヨシ)の朝鮮出兵の前線基地として名護屋城が登場しました。現在の佐賀県唐津市になります。
編集者A(以下A):この地域は古来、朝鮮半島との交易の最前線でした。唐津市の菜畑(なばたけ)遺跡はわが国最古の水田跡で、唐津市の加部島には遣唐使ゆかりの田島神社も鎮座しています。
I:「唐」の「津」というくらいですから、古代から大陸との交流が盛んだったんですね。
A:この名護屋城に全国から武将が参陣しました。本州最北端の津軽為信がもっとも遠くからの参陣かと思いきや、津軽海峡を隔てた蝦夷地(現在の北海道)の蠣崎慶広(後の松前慶広)まで参陣しています。「狄(てき)の千島の屋形、遼遠の路を凌ぎ来る」と秀吉を喜ばせたといいます。名護屋城は日本城郭協会「百名城」に選定されていますので、私も息子と登城しましたが壮大なスケール、遠大な景観に圧倒されます。博物館の展示も充実していて、訪ねる際は、丸一日スケジュールを抑えるべき場所です。往時には五層の天守閣まで聳(そび)えていたといいます。まさに「兵どもが夢の跡」です。
I:名護屋城で催された宴会の様子が描かれました。なんだか楽しそうでした。前週、家康家臣団が「心はひとつ!」と盛り上がった時に「えびすくい」は出るかな? あれ、やらないんだ、と思っていただけに、うれしい展開でした。
A:名護屋城での仮装大会は『太閤記』などに記載されたエピソード。秀吉が「瓜売り」、家康が「あじか(竹籠)売り」といった具合におのおの扮装して、仮装大会風の催しがあったということです。そのほか蒲生氏郷、前田利家、織田有楽斎などが扮装したみたいです。
I:名護屋城には黄金の茶室も造られました。名護屋城博物館にはその茶室が復元されています。黄金というのがすごいですね。
A:さて、秀吉の「唐入り」についてですが、歴史的に日本は地政学的に中国の盛衰に国の営みが大きく影響されてきました。唐が大国として勢威盛んな時代には、対馬の金田城(かなたのき)、大宰府の大野城、さらには岡山の鬼ノ城(きのじょう)など朝鮮式山城を築いて、「唐の脅威」と真剣に対峙することが求められました。元の時代には「脅威」だけではなく、実際に攻め込まれる「元寇」が歴史に刻まれました。
I:そうした歴史を経て、再び大国になった明の時代に足利義満は、明の冊封体制に組み込まれる形を取りながら、貿易で大きな利益を得たわけですね。
A:足利義満は実利を選択したということです。そして 『どうする家康』の劇中の時代は、明国の国勢が衰え始めていた時代でした。結果的に、秀吉の「唐入り」は失敗しますが、その後、明国を滅ぼしたのは満州族の「清」でした。
I:その清が衰えたタイミングに日本で起ったのが明治維新。明治になって日清戦争が勃発するというわけですね。
A:長く続いた戦争が終わると、求心力を高めるために「外」に視点を向けるというのは現代でもよくあることです。このタイミングで明の国力が落ち始めていたのは、歴史の偶然でしょうか。唐や元、最盛期の明相手に「唐入り」など考えられようはずもないですからね。
まさかの足利義昭再登場!
I: 名護屋城内で、本多平八郎(演・山田裕貴)らが、他家の家臣らにこれまでの戦歴を語っていたさなかに、びっくりの人物が現れました。なんと室町幕府最後の将軍足利義昭(演・古田新太)。出家して昌山(しょうざん)と名乗っての登場です。
A:教科書的には、元亀4年(1573)に足利義昭の京都追放を以て室町幕府が滅亡したとされますが、その後も15年ほど足利義昭は将軍のままで、返り咲きというか復権を狙っていました。広島県福山市鞆(とも)に御所を設けていたことでも知られています。
I:秀吉が関白になる頃に将軍職を辞したのですよね 。まさか本編に再登場するとは思いもよりませんでした。びっくりしました。
A:将軍の時はなんだか「暗愚な将軍」のように描かれていましたが、今回は〈遠慮なく厳しいことをいう者がおることがどれほどありがたかったか〉と来し方を振り返りました。信長ともう少しうまく付き合えていたら、義昭の人生も日本の歴史も変わっていたでしょうね。
I:世の中には意地を張らずに仲良くすればよいのに、と思う場面がままあります。足利義昭と織田信長の関係など、その最たるものですね。劇中家康に対して〈いやぁ、ご立派になられましたなぁ大納言!〉とへりくだる場面がありましたが、これを信長に対しても徹底していたらと思わされますね。
【老いた秀吉と家康の緊迫のやり取り。次ページに続きます】