田沼意次を排除、治済が松平定信を老中首座に推挙
家治は、水腫のため療養していました。その際、田沼が連れてきた町医者の調合薬を飲んだ後に、急死しています。そのことが反田沼派に利用され、田沼は老中罷免。家斉は自身の後見として白河藩の松平定信を任命します。定信もまた、治済と同じく吉宗の孫でした。
これらの背景には、治済による暗躍があったともいわれています。

尊号事件と大御所問題
寛政元年(1789)に起きた尊号事件(そんごうじけん)では、光格(こうかく)天皇が父・閑院宮典仁(すけひと)親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうとしたのに対し、松平定信が強硬に反対しました。
この事件の背景には、治済自身が大御所として江戸城西の丸に迎えられる計画があり、それに対する定信の反対が絡んでいたともいわれています。定信としては、尊号宣下が先例にならぬよう、強硬に反対したのでしょう。
しかし、これが理由の一つとなり、定信は、寛政5年(1793)7月に老中並びに将軍補佐役を辞職することになりました。
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