治済の大御所計画は頓挫、しかし贅を極める
定信は、財政の緊縮政策や異学の禁など「寛政の改革」を断行します。その最中、家斉は、父・治済を大御所にして、江戸城西の丸に迎えようとします。しかし、定信はこれに反対。これが理由の一つとなり、定信は、寛政5年(1793)7月に老中並びに将軍補佐役を辞職することに。
定信退陣後、治済は将軍の実父として、ますます威勢を強めます。位は、従一位にまでなりました。そのため、各方面から膨大な賄賂がおくられます。
上屋敷は駿河台にありながら、隠居後は向島に瀟洒な下屋敷を構えるなど、驕奢な生活を楽しんだそうです。
文政10年(1827)、77歳で治済は死去。没後には、太政大臣の位が贈られました。
まとめ
この時代、治済は、家斉夫人で茂姫の父・島津重豪(しげひで)、家斉が寵愛した側室お美代の養父・中野碩翁(せきおう)とともに権勢をふるった「三翁(さんおう)」と称されました。
2023年NHKドラマ10『大奥 Season2』の原作漫画において、治済は“怪物”、“最大の悪役”として描かれています。そうなれるほどの権力を掌握していたことが、伝わってきます。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/京都メディアライン
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引用・参考図書/
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)