刃傷事件の原因は…?
意知への刃傷事件の原因は、政言の私怨だとされていますが、根拠となる史料が定かではありません。幕府の吟味書(取調書)では、乱心の仕業だと考えられているようです。
“私怨”というのは、政言が意知に対して自身の出世のために多大な賄賂をおくったにもかかわらず、意知が約束を果たさなかったことだと言われています。
一方で、政治的な暗殺ではなかったか、という風評もありましたが、現在のところ、史料的な裏付けがありません。
江戸市民の反応
田沼政治の中でも特に賄賂政治に批判的だった人々は、この事件を歓迎し、江戸市民の関心を大いに引きました。意知を刺した政言はあがめられ「佐野大明神」や、のちには「世直し大明神」とまで言われて、讃えられたほどです。
政言は意知の死後、切腹を命じられます。彼が埋葬された浅草徳本寺の墓所には、大明神の幟(のぼり)が奉納され、香華が絶えなかったと言われています。
これが端緒となり、意次の勢力も衰退しました。
まとめ
意知が若年寄に在任していたのは、わずか1年ほどのことでした。そのため、意知が政治的に残した目立った実績というものはありません。しかし、当時、長崎のオランダ商館長であったイサーク・ティチングの著書『日本風俗図誌』には、以下のように記されています。
「父親のほうはもう年をとっているので間もなく死ぬだろう、(中略)しかし息子(意知)はまだ若い盛りだし、彼らがこれまで考えていたいろいろの改革を十分実行するだけの時間がある」(『国史大辞典』吉川弘文館より引用)
ティチングを始め、日本にいたヨーロッパ人たちは、意知を評価し、その死を惜しんだそうです。江戸市民の評価とは、正反対のものでした。
文/京都メディアライン
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『国史大辞典』(吉川弘文館)