江戸城中で斬られる
天明4年(1784)3月24日、江戸城から他の若年寄らと退出しようとしていたところ、新番士の佐野善左衛門政言(まさこと)に突然斬りつけられるという事件が起こります。その時に負った深手の傷がもととなり、4月2日命を落とします。36歳の若さでした。

刃傷事件の原因は…?
この刃傷事件の背景については、賄賂に絡む私憤からの衝動的な行動とする説などがあります。しかし、幕府の取調べでは「政言の乱心によるもの」と結論付けられました。
一方で、政治的な暗殺ではなかったか、という風評もありましたが、現在のところ、史料的な裏付けがありません。
江戸市民の反応
田沼政治の中でも特に賄賂政治に批判的だった人々は、この事件を歓迎し、江戸市民の関心を大いに引きました。意知を刺した政言はあがめられ「佐野大明神」や、のちには「世直し大明神」とまで言われて、讃えられたほどです。
これは田沼政権への不満が背景にあり、政権に反感を抱く人々がこの事件を歓迎したことを映し出しています。
政言は意知の死後、切腹を命じられます。彼が埋葬された浅草徳本寺の墓所には、大明神の幟(のぼり)が奉納され、香華が絶えなかったといわれています。
これが端緒となり、意次の勢力も衰退しました。
まとめ
意知が若年寄に在任していたのは、わずか1年ほどのことでした。そのため、意知が政治的に残した目立った実績というものはありません。しかし、当時、長崎のオランダ商館長であったイサーク・ティチングの著書『日本風俗図誌』には、以下のように記されています。
「父親のほうはもう年をとっているので間もなく死ぬだろう、(中略)しかし息子(意知)はまだ若い盛りだし、彼らがこれまで考えていたいろいろの改革を十分実行するだけの時間がある」(『国史大辞典』吉川弘文館より引用)
ティチングを始め、日本にいたヨーロッパ人たちは、意知を評価し、その死を惜しんだそうです。江戸市民の評価とは、正反対のものでした。
短い生涯ながら、田沼意知の存在は江戸時代後期の政治史に大きな足跡を残したといえるのではないでしょうか。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『世界大百科事典』(平凡社)
