横瀬浦史跡公園にあるルイス・フロイス像。

織田信長が武田信玄、朝倉義景、本願寺らの勢力と対峙していた元亀元年(1570)前後。京から遠く離れた九州では、キリシタン大名大村純忠が、イエズス会の勢力に長崎港を寄進するという驚愕の事態が発生していた。

歴史にifを論じるのがタブーだが、万一信長、秀吉の天下統一が遅延したならば、九州はイエズス会などの海外勢力に浸潤され、ブラジルなど多くの国がたどったように植民地と化した可能性は否定できない。

大河ドラマ『どうする家康』では描かれないが、劇中で描かれている「家康・秀吉」の物語の背景に、重大危機があったのだ。三重大学の藤田達生教授の著書『戦国秘史秘伝 天下人、海賊、忍者と一揆の時代』からの抜粋を紹介したい。起点は、長崎県西海市にある横瀬浦。わが国最初期の南蛮交易の拠点港である。

* * *

かつては国際貿易港だった横瀬浦(長崎県西海市)。

横瀬浦が南蛮貿易の中核的な都市となったのは、肥前松浦氏の城下町平戸(長崎県平戸市)にポルトガル人が来航しなくなってからである。原因は、永禄4年(1561)に平戸の七郎宮で勃発した日本人とポルトガル人との商売をめぐる武力抗争だった。その結果、カピタンモール(司令官)のソウザと13人のポルトガル人が殺害された(宮ノ前事件)。しかも、松浦氏が日本人を処罰しなかったため、平戸における南蛮貿易は中断することになった。

ポルトガル人は新たな貿易港を探したのであるが、その白羽の矢が当たったのが横瀬浦だった。理由は、松浦氏に対抗できる領主が治めていることと、波静かな佐世保湾内で水深の深い良港だったからである。ポルトガル人は、当地の領主である大村純忠に許可を求めた。利に賢い純忠は、布教許可を認めるかわりに、南蛮貿易を振興して横瀬浦を国際貿易都市にすることにしたのである。

桟橋からわずか300メートル沖合に浮かぶ八ノ子島には、宣教師ルイス・デ・アルメイダの記録によると十字架が建てられていた。現在の白い十字架は、1962年に復元されたもの。横瀬浦をめざす南蛮船にとって、ありがたいランドマークとなったことであろう。青い空、碧い海に映える八ノ子島を何回か廻った後に、佐世保湾をクルージングしたのだが、想像を遙かに超えて広い。

ルイス・フロイスが上陸した横瀬浦

藤田教授の上記著書からの引用を続ける。

佐世保湾と西海橋から南に広がる大村湾の内海の世界を、大村氏は支配していたのであるが、やはりその実態は海賊大名と呼ぶべきだろう。佐世保湾と大村湾を扼する針尾には、大村純忠の家臣だった針生伊賀守の城郭があったことを、船上からご教示いただいた。

伊賀守は横瀬浦の開港に尽力した地元勢力だったが、永禄6年7月に純忠と敵対する後藤貴明(大村純前の子息で肥前後藤氏の養子となる。養子入りして大村氏当主となった純忠と激しく対立する)方に属して、横瀬浦にいた外国人宣教師を殺害し町を焼き払うという事件(横瀬浦事件)を引き起こし、以来一貫して反純忠勢力に属した。

クルージングを終えた私たちは、横瀬保育所付近にあったといわれる純忠屋敷跡へと向かった。さらに「寺屋敷」の地名が残る横瀬浦史跡公園をめざした。ここには、教会をイメージした展望台などの観光施設があり、穏やかな入江や町並みを一望しつつ、かつて外国人で殷賑を極めた上町・下町などの国際貿易都市を偲んだ。

公園の降り口付近で、大著『日本史』(Historia de Iapam)で有名な宣教師ルイス・フロイスの等身大(195cm)の立派な銅像と対面した。『日本史』とは、内容的には日本教会史のことである。ポルトガルのリスボンに誕生し、イエズス会に入信したフロイスは、布教のためインドのゴアを経由して日本をめざした。フランシスコ・ザビエルとも親交があったようだ。フロイスがはじめて日本に上陸したのが、この横瀬浦だったのだ。

そして横瀬浦の繁栄と没落を見聞し、それから京都に向かい、信長や秀吉をはじめとする実力者たちとの交流をもち、その堪能な語学力を駆使して 慶長2年(1593)5月に死去するまで大著を書き上続けたのである。筆者は、院生時代に『日本史』を通読したが、バテレン追放令など日本の法令を実に正確に翻訳していることに仰天した。宣教師たちの精度の高い情報収集力と豊かな語学力が、島国日本を世界政治の舞台に導いたのである。

かつて教会や関係施設が建ち並んだ故地につくられた公園を散策しながら気になったのは、「寺屋敷」の地名の通り、ここにはもともと仏教寺院があったと思われ、破壊された墓石が点在していたことである。入信した純忠は、敬虔というよりも頑固な信者になったため、徹底的に寺院や墓などを破壊したと言われるが、その関係遺物かもしれない。

純忠の信仰心が、湊町横瀬浦を国際貿易都市へと押し上げたのだが、それ故の仏教徒弾圧が、やがて家臣たちの反発を招き、当所を壊滅させる焼き討ち事件へと発展したのではなかろうか。以後、南蛮貿易の舞台は、長崎へと移ってゆくのである。

要塞化された長崎

肥前横瀬浦(長崎県西海市)が国際貿易港としての機能を果たしたのは、わずか3年間のことだった。しかし、その歴史的意義は決して小さなものではなかった。スペイン人のコスメ・デ・トルレス(トーレスとも)神父(1510 ~70年)をはじめとするイエズス会宣教師たちが、国際都市建設地の選定、その地の大名との交渉、キリシタンを市民とする都市の建設、大名のキリシタン入信、大名による都市の寄進、これをすべて成功させたからである。

佐世保湾内の小さな港町だった当地に、イエズス会の教会と修道院と大きな十字架が建設され、沖合の八ノ子島にも十字架が上がった。その風景を活写した書翰がポルトガルやローマに送られ、印刷されてヨーロッパのカトリック世界に伝えられたのである。

トルレス神父は、フランシスコ・ザビエルとともに、1549年8月15日に鹿児島に上陸した。日本での布教にめどをつけてインドに渡るザビエルに後事を託されたトルレスは、山口、豊後、肥前などの各地を巡りながら、宣教師の教育、日本人への布教などを積極的におこなった。

トルレスは、肥前平戸にかわって横瀬浦を日本布教の根拠地にしようとした。彼が横瀬浦に1年以上も滞在したことによって、九州全体に信者が増加した。しかし、大村氏の内紛に巻き込まれてしまい、国際貿易都市も灰燼に帰してしまった。

横瀬浦の壊滅について、ポルトガル人の宣教師ルイス・デ・アルメイダは 1564年10月14日付の書翰に、「横瀬浦の港は、たちまち近くにいた敵の一人によって秘かに焼かれてしまった。」(『イエズス会日本報告集』)と記している。彼は、大村純忠の娘婿であり、キリシタンだった長崎純景に接近し、その領地長崎で布教を開始した。

ポルトガル船は、横瀬浦が焼亡した後は福田(長崎市)に来航するようになっていた。しかし当地は角力灘に面しており、風波が強く港湾都市としては難点があった。これにかわって目を付けたのが、湾の奥に位置する波静かな長崎だったのだ。ここに教会が建設され、今に続く国際港湾都市が誕生した。

元亀2年(1571)の長崎開港に関して、フロイスは「ドン・パルトロメウ(大村純忠)と必要な協定を行った後、司祭、および定航船の援護のもとに家族連れで住居を設けていたキリシタンたちは、その(長崎に)決定的で確乎とした定住地を創設し始めた」(『日本史』)と記す。

町立て当初の長崎は、六町からなっていた。それが、島原町・大村町・外浦町・平戸町・文治町・横瀬浦町だった。横瀬浦から移住した人々もいたのである。彼らは、各地のキリシタン亡命者とみてよいだろう。横瀬浦の焼亡後に、その規模を遥かに上回る国際貿易都市が、キリシタンによって築かれたのだ。

イエズス会巡察使ヴァリニャーノは、1579年から1582年まで日本に派遣され、各地における布教活動を指導した。織田信長との交流は有名であるが、大村氏との交渉によって長崎を教会領としたことは、日本キリシタン史上、特筆すべき出来事であった。

大村純忠・喜前父子の寄進状には、長崎と茂木(長崎市)を周囲の田畑とともに永久に無償で寄進する、イエズス会に死刑も含む裁判権を与える、ポルトガル船の入港税・停泊税も徴収してよいなど、両地の領有権をすべてイエズス会に譲渡するという内容だった。大村氏に留保されたのは、ポルトガル船をはじめとする船舶からの物品輸入税のみだった。

一見、大村氏には、ほとんど利益をもたらさない寄進のようにも見えるのだが、その背景には龍造寺氏や有馬氏ら周囲の戦国大名の攻撃から長崎を守るために、イエズス会を後ろ盾としたいとの思いがあった。

ヴァリニャーノの1583年の『日本諸事要録』からは、長崎には、高台の岬の先端に教会と住居が建設され、その背後に六町が配置されていたこと、陸地に続く部分は要塞と堀で守備されていたこと、400軒のキリシタン家屋が建設されたことなどが記されている。長崎は、戦闘を通じて城塞都市化されたのであるが、内部の各町が武装していたことも重要である。

天正13年(1585)のフロイスの年報によれば、長崎には司祭4名と修道士2名が駐在していること、マカオからの定航船が来航して交易が行われていること、全住民がキリシタンであること、住民が増えたため教会を増築したことなどが報告されている。

これらの記載からは、長崎が順調に教会領として発展しつつあったことがうかがわれる。対外交易による利益をもとに武装し、町を要塞化していったのである。このような動向を危険視し、待ったをかけたのが豊臣秀吉だった。

天正15年3月1日に大坂から九州に向けて出陣した秀吉は、同月21日に赤間関(山口県下関市)に到着し、先発の実弟秀長と合流した。これより軍隊を二分し、秀吉は筑前・筑後・肥後経由で、秀長は豊前・豊後・日向経由で島津氏の薩摩をめざすことが決定する。

戦闘は激烈を極めたが、先陣をきって活躍したのは高山右近・黒田孝高・蒲生氏郷らキリシタン大名だった。彼らにとってこの戦いは、島津氏に蹂躙された大友氏ら九州のキリシタン勢力を救済する聖戦だったからである。

秀吉は、島津氏を降した後に筑前筥崎宮(福岡市)に滞在して仕置(戦後処置)をおこなったが、その折に有名なバテレン追放令を発令した。教会領となっていた長崎の要塞化を知った秀吉が、キリスト教の浸透を危惧し、重用していたキリシタン大名高山右近に棄教を迫ったが拒絶されたのを受けて、ただちに断行したのである。

バテレン追放令は、直前に発令された賊船禁止令とも相俟って、外交からキリシタン大名を排除して南欧国家の侵略に備えるとともに、莫大な利益をもたらす生糸に代表される南欧貿易を秀吉が独占するための、必要不可欠な方策だったといえるであろう。

秀吉の宣教師に関する認識は、正しかった。たとえば、宣教師コエリゥがフィリピンのイエズス会布教長アントニオ・セデーニョに認めた1585年3月3日付の書簡には、「(マニラ)総督閣下に、兵隊・弾薬・大砲及び兵隊のために必要な食料、1、2年間食料を買うために必要な金を充分搭載した3、4艘のフラガータ船を、日本のこの地に派遣していただきたい」と記されている。宣教師たちが、長崎に武器弾薬を配備して要塞化する一方で、マニラを拠点とするスペイン艦隊の来援を要請していたのである。

スペイン艦隊が精兵を率いて戦国大名間の戦争に介入すれば、植民地化のきっかけになることは火を見るより明らかだったのだ。当時、世界の銀の3分の1まで産出したといわれる日本に、彼らが興味をもたないはずはなかっただろうから。

近年の研究によると、庇護を受けていた大村氏や有馬氏らキリシタン大名の軍事力に期待できないことを知ったイエズス会が、長崎の要塞化を通じて軍事的自立をめざしたことが指摘されている。情報通の秀吉が、このような不穏な動きを知らなかったはずはないだろう。

これに対応して、秀吉は藤堂高虎を長崎に派遣して政権の直轄領へと編入したのであった。キリスト教の布教と一体になった植民地化というアジア諸地域で進んでいた深刻な事態を、ごく初期に回避したという点では、秀吉の政治感覚を評価するべきであろう。

* * *

長崎県西海市にある横瀬浦は佐世保市の観光スポット「ハウステンボス」にも近い。ハウステンボス観光にあわせて横瀬浦を訪ねるもよし、あるいは横瀬浦探訪のついでにハウステンボスにいくもよし。日本の戦国時代に思いを馳せる旅を楽しんでほしい。

南蛮貿易のランドマークだった八ノ子島(長崎県西海市)。

構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり


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