豊臣秀吉による殲滅
天正10年(1582)に本能寺の変で信長が亡くなると、豊臣秀吉が後継者になります。すると、信長と結んで雑賀を治めていた鈴木孫一(すずき・まごいち)が追放され、秀吉に敵対的な土橋春胤(つちはし・はるたね)が雑賀衆のリーダーに就任。かつて信長に味方した根来寺の僧兵も雑賀衆と同盟を結び、和泉国に派兵して秀吉と戦いました。この時、本願寺の指導者であった顕如は鷺森から貝塚(大阪府)に移っており、本願寺が一揆を指導する立場にはいなかったと見られます。
天正13年(1585)、秀吉は紀伊に軍を送ります。秀吉軍との戦力の差は歴然であり、城は次々と落ち、根来寺の僧兵や雑賀衆は大敗。根来寺には火が放たれ、多宝塔・大師堂・大伝法院などわずかな建物を残して、ほとんどが焼け落ちました。この時、寺が燃える様子は顕如がいた貝塚からも見えたといいます。
根来寺を落とした後、秀吉は太田城(和歌山市)に籠城する雑賀衆を攻めました。抵抗が激しかったため、秀吉は水攻めを決行。太田城の周囲に堤防を築いて、紀ノ川の水を流し込みます。
水攻めで籠城できなくなった雑賀衆は1か月戦った後についに開城します。開城後、首謀者は斬首される一方、それ以外の百姓は命を助けられ、村に帰されました。
雑賀攻めの後、農民が一揆を起こさないようにするために刀狩りが行われ、兵農分離のきっかけになっていきます。また、これ以降大寺院の政権への服属が進んでいくことに。中世から近世に移行する歴史的な大きな転換点であったと言えるでしょう。
なお、秀吉は雑賀近辺にとどまらず最終的には紀南にまで到達し、紀伊全体の支配を確立しました。紀伊の支配は自身の弟・秀長に任せています。
まとめ
戦国大名と対等に戦うほどの実力を持った雑賀衆も最後は敗れ去りました。また、雑賀衆の敗北をきっかけに刀狩りや兵農分離が進められていきます。雑賀衆の最後の奮闘は、中世から近世へ移行する大きな歴史のターニングポイントであったと言えるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)
和歌山県教育センター学びの丘
和歌山市観光協会