大河ドラマや時代劇を観ていると、現代ではあまり使われない言葉が多く出てきます。なんとなくの理解でも番組を楽しむことはできますが、セリフの中に出てくる歴史用語を理解していたら、より楽しく観ていただけるのではないでしょうか。
【戦国ことば解説】では、戦国時代に使われていた言葉を解説いたします。言葉を紐解けば、戦国時代の場面描写をより具体的に思い浮かべていただけることと思います。より楽しくご覧いただくための⼀助としていただけたら幸いです。
さて、今回は「会合衆(えごうしゅう)」という言葉をご紹介します。経済力をつけ、国を支える先進都市となった地域では、商人たちが独自の自治組織を形成していました。会合衆もその一つです。まずは「会合衆」についてご説明いたしましょう。
会合衆とは?
会合衆とは、室町時代後期から戦国時代にかけて作られた、都市自治組織のことです。畿内やその周辺の港町には、海外貿易などで強大な力をつけた地域が複数存在しました。国を支えるほどの経済力をつけた地域では、商人たちが独自の自治組織を形成し、運営に携わっていたのです。会合衆もその一つであると言えます。
特に堺の会合衆の力は絶大で、強固な結束と権力によって、町が運営されていました。会合衆は、富と権力を誇る特権階級(豪商)によって構成され、内部では自由な議論が行われていたそうです。しかし、決して民主的な組織と呼べるものではありませんでした。
また、代表的な会合衆のメンバーとして、「天下の三宗匠(てんかのさんそうしょう)」と称された茶人の今井宗久・千利休・津田宗及らが挙げられます。会合衆は上層商人により構成された組織でしたが、武家政権とは切っても切れない関係にありました。町の治安を守るため、戦国武将たちの争いを調停することもあったのです。
国の方針に左右されず、独自の自治を行うことで、町を統制していた会合衆。永禄11年(1568)、上洛した信長が堺の会合衆たちに矢銭(やせん、税金のようなもの)を要求した際には、自治が乱れる恐れから、徹底的に反発する者もあったそうです。
最終的に、会合衆の一員で、信長とも親交があった今井宗久が仲介し、会合衆たちは矢銭の支払いを承諾しました。これにより、政権への自立性は失われることとなりますが、商業活動の自立性は維持されたのです。
商人の自治組織
戦国時代には、会合衆のほかにも、商人による様々な自治組織が存在しました。代表的な組織について、順に紹介します。
町組
町組(本来の読み方はちょうぐみ、まちぐみとも言う)とは、京都の複数の町で形成された、町人による自治組織のことです。戦国時代に入って、室町幕府の支配体制が形骸化したことに伴い、形成された組織。会合衆と同じように、町人たちが独自の自治により、町を運営していたとされています。
年行事
年行事(ねんぎょうじ)とは、博多の商人たちによる自治組織のことです。戦国時代、博多は大内氏によって支配されていましたが、大内氏が没落した後は、大友氏が支配することとなりました。堺と同じく、南蛮貿易により経済的に豊かになった博多。堺の会合衆に倣って形成されたのが、年行事でした。
堺と博多は、日本の商業を担う二大都市として、大いに栄えることとなったのです。
納屋衆
納屋衆(なやしゅう)とは、納屋を保有する倉庫業者のことです。また、納屋とは港における物資を保管する倉庫のことで、堺の納屋衆は倉庫業だけでなく、金融・運輸・貿易などにも携わっていました。幅広い商業活動に携わった納屋衆は、会合衆として町の運営に関わることもあったそうです。
ちなみに、千利休は幼名を「納屋与四郎」と呼ばれ、今井宗久は「納屋宗久」と呼ばれていました。いずれも納屋衆の出です。
まとめ
堺や博多など、海外貿易で栄えた都市には、商人たちによる自治組織が存在していたことがわかりました。彼らは、商業活動だけでなく、戦国武将たちを経済面で支えることもあったと考えられています。しかし、鎖国政策が始まると、これらの地域は活気を失っていき、会合衆による自治の伝統も、終わりを迎えることになるのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
⽂/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『旺文社日本史事典』(旺文社)
『世界大百科事典』(平凡社)