はじめに-甲相駿三国同盟が成立した背景
「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)」とは、天文23年(1554)に甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元が締結した和平協定のことです。
戦国時代においては、ある戦国大名同士が利害の一致から政略結婚などを通じて同盟を結ぶということがよくありました。有名な同盟では、織田信長と徳川家康が結んだ同盟(「清洲同盟」とも呼ばれる)があります。同盟を組んで、共通の敵に対抗することもありました。
ただ、同盟を結んだからといって安心できるわけではありません。当時の戦国大名にとって、裏切りや謀反は日常茶飯事。信義関係がそもそも成り立たない状態だったのです。同盟を結んで味方だった相手が、明日には敵となりうる時代でした。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、家康は信玄との間で、今川の領地を双方が攻めて、切り取り次第で自分の領地にするという密約を交わすことになります。この密約は、信玄による甲相駿三国同盟の破棄を意味するものであったといえるでしょう。
目次
はじめにー甲相駿三国同盟が成立した背景
甲相駿三国同盟とは
甲相駿三国同盟の成立から終焉までの流れ
まとめ
甲相駿三国同盟とは
甲相駿三国同盟とは、天文23年(1554)に甲斐の武田氏、相模の北条氏、駿河の今川氏が締結した和平協定のことです。この同盟締結により、三者は次のようなメリットを得たとされます。
まず、武田氏は越後の上杉謙信と信濃をめぐってたびたび交戦していました。「川中島の戦い」は有名です。同盟を結ぶことで、今川氏や北条氏に責められる懸念がなくなったので、一層謙信との戦いに専念できました。
北条氏もまた上杉氏と敵対関係にありました。同盟によって、武田氏・今川氏からの脅威を心配することなく、関東への出兵に専念できたのです。
今川氏は尾張への進出を考えており、武田氏と北条氏からの攻撃がなくなったので、西方への進出に集中できました。
【甲相駿三国同盟の成立から終焉までの流れ。次ページに続きます】