⼤河ドラマや時代劇を観ていると、現代ではあまり使われない⾔葉が多く出てきます。一定の理解でも番組を楽しむことはできますが、セリフの中に出てくる歴史⽤語を理解していたら、より楽しく鑑賞できることと思います。

そこで、【戦国ことば解説】では、戦国時代に使われていた⾔葉を解説いたします。⾔葉を紐解けば、戦国時代の場⾯描写がより具体的に思い浮かべていただけることと思います。より楽しくご覧いただくための⼀助としていただけたら幸いです。

さて、この記事では「雑賀衆(さいかしゅう)」についてご紹介します。

戦国時代の紀伊には、雑賀(和歌山市)を拠点とした本願寺門徒の集団がいて、彼らは「雑賀衆」と呼ばれました。国人・地侍・寺院などによる自治組織が発達し、戦国大名による支配を退けていたのです。この時代、紀伊以外にも自治組織が発達し、堺や加賀などが有名。中には、戦国大名と対等に戦うほどの実力を持つ集団もいました。

目次
雑賀衆の成立と衰退まで
まとめ

雑賀衆の成立と衰退まで

雑賀衆とは、紀伊の雑賀(和歌山市)を拠点とした本願寺門徒の集団のことです。主に現地の国人と農民から構成され、紀ノ川河口で水運に従事するものも多くいました。15世紀の後半、本願寺の蓮如が紀伊国で浄土真宗を広めことから、戦国時代には浄土真宗の信者が多数存在。また、紀伊は寺院の影響が大きく、紀ノ川筋では高野山・粉河(こかわ)寺・根来(ねごろ)寺などが勢力を持ち、紀南一帯は熊野三山の支配下にありました。

現在の紀ノ川河口の様子

戦国時代には鉄砲が伝来しますが、紀伊にも鉄砲が伝わると根来は鉄砲の産地として有名になり、その影響を受けて雑賀衆も積極的に鉄砲を導入します。砲術も極め、日本有数の鉄砲集団として名を高めました。傭兵集団としての側面もあり、戦国大名に雇われることもあったのです。

織田信長を退ける

鉄砲で武装した雑賀衆は、戦国大名と互角の戦いを繰り広げます。織田信長と石山本願寺が戦った石山合戦にも参戦し、天正4年(1576)には数千もの鉄砲で信長に抵抗。この時、信長は銃弾を受けて足に怪我をしています。さらに、木津川口での海戦では、毛利と雑賀水軍が信長の水軍を撃破。

信長はたびたび大軍で雑賀衆を攻めるも、屈服させることができませんでした。そこで信長は根来寺の僧兵の一部と結び、天正5年(1577)に雑賀を攻略。いったん、雑賀衆は信長に降ります。しかし、雑賀衆はその後も本願寺との関係を継続。信長と和睦した大坂の本願寺は、天正8年(1580)に鷺森(和歌山市)に移りますが、力のある雑賀衆を頼ったと考えられています。

豊臣秀吉による殲滅。次ページに続きます

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