石浜繁子(えほんのおうち ゆめのき文庫主宰、保育士)

─64歳で保育士に。子育て世代を支えるための絵本の文庫を設立。─

「70歳まで保育園で働きました。この年になって天職に巡り会うこともあるのです」

石浜繁子さんは主宰する読み聞かせ(しげこさんの絵本の会)で、『ぼくはなきました』(くすのきしげのり作、石井聖岳絵)を朗読した。子どもたちへのエールだ。

──屋外での読み聞かせは大盛況でした。

「3年前から月2回、豊南市場(大阪府)の広場で読み聞かせの会をやっているんですが、お陰様で買い物の親子連れが足を止めてくれます。私が読むだけでなく、一緒にピアノに合わせて手遊びをしたり、ゲストの子どもに読んでもらったり、皆で楽しんでいます」

──原爆を描いた絵本も読まれてましたね。

「『絵本 おこりじぞう』(山口勇子作、四国五郎絵)のことですね? 広島での原爆体験を描いたお話です。ウクライナでの戦争のことを考えた時、広島、長崎のことを語り継がなくては、と強く思ったんです。日本人は、大人も子どもも、原爆のことや戦争のことを知らなすぎます」

──聞いている子どもも大人も真剣でした。

「最初の頃は、戦争を描いた絵本を読むと、”そんなむごい話をわざわざ読まなくてもいいんじゃないか”と批判されました。実際、聞いている子どもたちが、怖くて泣き出したこともあります。もちろん、楽しい絵本も読みますよ。でも、絵本だからこそ伝えられることがあると思っているんです。例えば、戦争体験者が一生懸命話をしても、子どもたちは興味を示しません。話している内容が、想像できないんです。絵の力は強いですね。絵本を間に挟むと、どんなお話でも、子どもに伝わります。目を輝かせるのがわかるんです。絵に触発されて、想像も広がるし、”もっと知りたい!”と思うんでしょうね。私、絵本が大好きなの。自宅を絵本の文庫にしてしまったくらいですから」

──ご自宅を?

「4年前に一念発起して、豊中(大阪府)の自宅の居間を絵本専門のスペースにしてしまいました。名前は、『えほんのおうち ゆめのき文庫』。素敵な名前でしょ? 絵本『ひっついた!!』の作者のきどまやさんに、オリジナルマークを描いてもらいました。貯金や募った寄付で、絵本や紙芝居を揃えていったのですが、今では2000冊ほどになるでしょうか。近くの図書館が休館日の月曜を開放して、ここで絵本の読み聞かせや貸し出しをしています。どこで知ったのか、他県からいらっしゃった方もいましたね」

──なぜ絵本の文庫を作ったのですか。

「娘ふたりも随分前に独立し、お父さん(夫の泰平さん)も5年前に逝ってしまいました。寂しいけれど、考えてみれば、これからは何をやっても誰からも反対されません。相談する必要もない。だったら、子どもとお母さんのために何かできることをしたい、と思ったんです。保育士をやっていたので、今のお母さんたちが追い込まれていることを知っていました。だから皆がほっとできる居場所を作ってあげたかったんです。私も60数年前、縁もゆかりもない大阪に出てきて、相談する相手もなく、随分苦労しましたから」

──豊中のご出身ではないのですね。

「東京・月島の生まれです。戦争が終わったのが3歳の時。記憶は朧(おぼろ)ですが、東京大空襲のB29の轟音が今でも耳に残っています。7人兄弟の3番目でしてね。あの頃は皆さんそうだったと思いますが、本当にひもじかった。今でいう栄養失調ですね。ちびでやせっぽちで、お腹だけがぽっこり出ていました。今、近所の『子ども食堂』の手伝いをしているのですが、お腹を空かした子を見ていられないからです」

──なぜ大阪へ?

「中学校を出て、商社の電話交換手として働き始めるのですが、17 歳の頃、好きな人ができたんです。家族の反対を押し切り、大阪に行ってしまった7つ年上の彼を追って、家を飛び出しました。駆け落ち同然ですね。彼は大阪の魚市場で働き始めるのですが、その4畳半のアパートに転がり込みました。家具はテーブル代わりのリンゴ箱ひとつ」

石浜繁子さん23歳の時の家族写真。7つ年上の夫、泰平さん(30歳)と娘のひろ子さん(3歳)と共に。七五三の記念にと家族でおめかしして撮影に臨んだ。

「慣れない勉強をするうちに、年齢なんて関係ない、と思えてきた」

──苦労なさいましたね。

「それが当たり前と思っていました。好きな人と一緒になりましたしね。東京の両親も、最後は結婚を祝福してくれましたし。私もお父さん(夫)も戦前生まれで、貧乏が当然だった世代です。うちのお父さんは特に古い人間で、“女は仕事をせずに家にいろ”という考えの持ち主。毎日の食事も“40品目用意して当然だ”という人でした。絵に描いたような亭主関白ですね。私は、近所の公民分館に関わったり、内職したり、PTAに育児に家事に、という忙しい日々でした。保育士ですか? 54歳の時に、近所の保育園のパートタイマーとして働き始めたんです。経験はまったくありませんでした」

──ご主人は反対されなかったのですか。

「当時、お父さんは運送会社の勤務で、私が54歳の時に定年退職を迎えたんです。そこで、言ってみたんです。“お父さん、私、(働き手を)交代しようか?”って。まだ家のローンも残っていましたしね。そしたら何と言ったと思います? “うん、いいなあ”って。そんなタイミングで、たまたま保育園で働いてみないか、と知人から誘われました」

──知らない世界への戸惑いは?

「戸惑いはありましたが、好奇心もありました。でも、実際に行って驚きました。園児が200人もいる大きな保育園だったんです。あっちでお漏らしする子がいれば、こっちで泣いている子がいる。それはもう毎日が大変でした。3日もしないうちに音を上げそうになりましたが、紹介してもらった手前、すぐに辞められません。不思議ですね、毎日ヘトヘトになりながらも続けているうちに、子どもがかわいくなってきました」

──子どもが好きなのですね。

「はい、と言ったらきっと、娘ふたりから睨まれますね」

──なぜですか?

「私、度を超した教育ママだったんです。自分が勉強してこなかった、というのがあったんかなあ。娘だけには、勉強ができないことで苦労させたくなかった。長女が小学生の時は、近くの公園に行くにも、“遊びながらだってできるでしょ”と、ドリルを持たせていました」

──それは極端ですね。

「教育ママでしたからね。テストでいい点をとっても、褒めるかわりにできなかったところを叱りました。抱きしめるかわりに、“こんなこともできないのか”と言葉でなじりました。絵本? 買ってあげたことも、読んで聞かせてあげたこともありません。絵本を読む時間があるならドリルを解けばいいと思っていましたから。とんでもない母親ですね。保育園で子どもたちと向き合って、ようやく自分が間違っていたことに気づいたんです。私は、娘たちにしてあげなかったかわりに、保育園の子どもたちをぎゅっと抱きしめていたんだと思います」

──親のやり直しをした。

「ええ、本当に。この年になってようやく、親としての生き方を取り戻しているのかもしれません。親とは子どもを抱きしめる存在だと気づかせてくれた、保育園のあの子たちに感謝しないといけませんね。それで、もっと恩返しがしたいと思ったのですが、パートタイマーだと保育に関わる内容が限定されるんです。どうにかしたいな、と思っていた時に、たまたま保育士の国家試験のポスターに目が留まりました。全国統一の国家試験のお知らせでした。募集を見ながら“私でも受かるかな”と呟(つぶや)いたら、園長先生が“あなたなら大丈夫”と背中を押してくれました。でもそれからが大変でした」

──何が大変だったのですか?

「問い合わせたら、“中卒じゃだめだ”というんです。必死に食い下がったら、試験の担当者が骨を折って、私の勤務時間数が規定を超えていたことを確認してくれまして、受験できることになったんです。ここまでが相当大変でした。いざ受験勉強となると、これがもっと大変。だって63歳ですよ? それまでろくに勉強してこなかったので、勉強の仕方もわからない。筆記用具を買うことから始め、腱鞘炎になるまでひたすら手を動かしました。最後は肩まで痺れていました。不思議なものですね。勉強しているうちに、“やればできる”と思い始めた。やる気さえあれば、年齢なんて関係ないと思えてきたんです。この時初めて勉強したのかもしれません」

長女のひろ子さん(左)と自宅前で。「めちゃくちゃな子育てで子どもたちに悪いことをした。今はその分、他のお子さんに対して子育てをやり直しているんです」と繁子さん。

「今は、学ぶ事がいっぱいあるということが嬉しくてしかたがない」

──試験結果はどうだったのですか。

「試験勉強を始めてから、2年目で受かったんです。地元の新聞にも『64歳の保育士誕生』という記事が載りました。お父さんも、“スルメを噛むと脳の刺激にいい”とか“青魚は頭が良くなる”とかどこかから情報を仕入れてきて、料理を振る舞ってくれました。新聞でも『ご主人の内助の功』と書かれて、まんざらでもなかったようですが。保育士試験に合格してから、70歳まで保育園で働きました。この年になって、天職に巡り会うことがあるんですね。保育園での子どもたちとの時間は、私の宝物となりました。今でも、教え子たちとの付き合いがあるんですよ」

居間を改装し「えほんのおうち ゆめのき文庫」に。約2000冊の絵本や紙芝居が並ぶ。インターネットでの情報発信も積極的で、70歳を過ぎて始めたパソコンもお手のものだ。

──他にも様々な活動をされていますね。

「『朗読人ひまわり』『おはなし会とっとこ』『おはなしボランティア ポケット』『虐待ゼロ会議メンバー プチ相談員』……挙げていくとキリがないですね(笑)。頼まれたら引き受けてしまう、ということもありますし、こんな私が、子どもやお母さんの役に立てること自体が、何よりも嬉しいんです。だってね、うちの図書館に来たお母さんたちを見てると、本当に大変そうなんです。その心の負担が少しでも軽くなるなら……」

──どう大変なのですか。

「お母さんたちは孤立しています。子育てを学ぶ機会も多くありません。私の頃は、兄弟も多かったし、周りに赤ちゃんも子どももたくさんいた。だから子育てというものに馴染みがありました。でも今は、核家族が当たり前で、しかも少子化でしょ? 学校で子育てを教えてくれるわけじゃないし、親が近くにいなければ相談もできない。ひとりで不安なんです。だから私がかわりに、話を聞いて差し上げる。自宅の図書館『えほんのおうち ゆめのき文庫』は、お母さんの話に耳を傾けてあげる場でもあるんです」

──ただ耳を傾ける。

「本当はね、いろいろ言いたいこともあるのよ(笑)。私の頃はもっと大変だったのよ、と思うこともある。でもそんなことをお母さんたちは聞きたいわけじゃない。時代も違います。むしろ今のほうが追い込まれやすいわね。“あなたは大丈夫”とお母さんに伝えて、自分の失敗した話を語るようにしているんです。だってほら、実際、失敗してばかりの親でしたから。それでも娘たちは立派に育ったわよって」

──お母さんたちは勇気づけられますね。

「でね、50歳以上年齢の離れた若いお母さんたちと話をしながら、結局、私自身が学んでいるんです。気づかされることも本当に多い。絵本もそう。例えば宮沢賢治の童話なんて、絵本を通してやっとその良さに気づいたくらいですから。今は、学ぶことがいっぱいある、ということが嬉しくてしかたないのかもしれません」

──現在80歳です。今後の予定は?

「まだまだ体力の続く限り、絵本の読み聞かせを続けていきたいですね。声と絵を通して、たくさんの素敵な世界を子どもたちに、そして大人たちにも知ってほしい。絵本は世界の入口ですから」

豊南市場(大阪府豊中市)の広場「サウンドステーション」では、毎月第1・第3土曜11時より、「しげこさんの絵本の会」が開催される。この日も20人近く集まった。
“北摂の台所”として賑わう「豊南市場」は個人商店が30近く軒を連ねる。この日は、読み聞かせの会の後、老舗の芦田青果店に立ち寄り、夕食のお買い物。

石浜繁子(いしはま・しげこ)
昭和17年、東京・月島に7人兄弟の3番目として生まれる。中学校卒業後、商社の電話交換手に。17歳の時、好きな人の後を追い大阪へ。結婚し2女をもうける。昭和39年より現在の豊中市庄内に居を構える。地域活動に長く関わり、夫の退職を機に54歳で保育園のパートとして働き始め、64歳で保育士国家試験に合格。平成30年、76歳の時に自宅を改装し「えほんのおうち ゆめのき文庫」を開設。
「えほんのおうち ゆめのき文庫」https://yumenoki-bunko.jimdosite.com/

※この記事は『サライ』本誌2022年12月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/宮地 工)

 


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