馬場あき子(歌人)
─70余年にわたり詠んだ約1万首を収めた全集を上梓─
「日本文化における『型』とは、自己を研ぎ澄まし、磨いていく砥石に他なりません」
──昨秋、『馬場あき子全歌集』が出ました。
「もう随分長いこと、歌を詠んでいますね。戦後すぐ、昭和21年の冬のことです。学友が渋谷の東横デパートで、歌誌『アララギ』と『まひる野』を買ってきた。短歌には興味があって、広告の裏紙に書きためていたんです。『アララギ』は有名よね? 明治36年にその前身が創刊された伝統ある歌誌です。一方で『まひる野』は昭和21年3月にできたばかり。もうすぐ19歳になるという翌22年の1月に、『まひる野』に入会しました」
──なぜ『まひる野』を選んだのですか。
「『アララギ』の表紙は、右から左に文字が書いてありました。思わず“ギララアって何?”と聞いてしまったほど。『まひる野』は今と同様、左から文字が並んでいました。その新しさに惹かれたのでしょう」
──当時は何をしていたのですか。
「日本女子専門学校(現・昭和女子大学)国文科の学生でした。入学したのは、昭和20年4月のことです」
──戦争の真っ只中です。
「私の青春は、戦争と共にありました。始まった時のことは今でも覚えています。中野(東京)にあった昭和高等女学校(現・昭和女子大学中高部)に通っていたのですが、その日は定期試験。13歳の私は数学の試験を受けていました。数学はチンプンカンプンでしたので、さあ、どうやって点を取ろうかと頭を悩ませていたら、テストの途中で臨時の校内放送が入り、講堂に集まるようにという。そこで担当の先生から『開戦の詔勅』を聞きました」
──短歌と出会ったのはその頃ですか。
「小学生の頃から百人一首を諳(そら)んじるような子でしたが、短歌を初めて作ったのは、昭和15年に高等女学校に入学してから。『平家物語』や『古今和歌集』などむさぼるように読みました。モーパッサンの『女の一生』を密かに回し読みしたのも、この頃ね」
──戦争中も学校の授業はあったのですか。
「昭和17年から学徒動員が始まり、だんだんと授業どころではなくなりました。私は、昭和19年に三鷹中島飛行機工場に配属されます。旋盤の担当で、大きな城のような工場で作業をしました。平成のはじめ頃までは、焼夷弾の夢をよく見たものです。爆風で飛ばされた友人もいましたし、機銃掃射にあってたまたま生き残ったこともあった。死と隣り合わせが当たり前で、怖くはありませんでした。昭和20年になると、日本は負けると予感していました。だって工場に部品が来なくて、何も作れないんですから。それで、工場も爆撃を受けて稼働しなくなって、自分の行き先を決めないといけなくなった。無所属だと女子挺身隊に組み込まれてしまうのです。そうなると地方の工場に行って働かなければなりません。逃れるにはふたつの選択肢がありました」
──そのふたつとは。
「上級学校にあがるか、代用教員になるか、です。実はそれで、代用教員の口が見つかったんです。ところが住む家がない。ようやく紹介されたのは、農家の牛小屋の2階。窓を開けると、牛の糞の臭いで卒倒しそうになりました。それで代用教員を諦め、専門学校に進んだのです。3月に東京大空襲があり、不安の中で願書を書きました。4月から学生になりましたが、もちろん校舎は焼け落ちてありません。近くのお寺が学び舎でした。そうそう、4月13日には、早稲田にあったわが家も空襲で焼けました。本も何もかも」
──ご家族は無事だったのですか。
「丙種で戦争に行かなかった父も、継母も無事でした。その頃は防空壕に逃げ込んだら生き埋めになるって知ってるから、落ちてくる爆弾を目で追いながら逃げ惑いました。家が焼けてどう思ったか? 何とも思いませんよ。みんな同じなんだもの。今も、世界のあちこちで戦争があり、難民がたくさん生まれていますが、遠い話じゃありません。日本もかつてはそうでした。家が焼けて、防空壕を住処にして暮らしている人も大勢いたんですから。どんなことをやっても生きていける。この時、このことを学んだのかもしれません。戦争は私の原点ね」
──初歌集を27歳で刊行します。
「この頃はいろいろあって、私は高等女学校で国語を教えていました。『まひる野』同人の岩田正と結婚したのも、この数年前。ところが結婚した途端に岩田が結核になってしまって、仕事も休職。そんな中で“今は女が出すべきだ”と誰かが言い出して、私が歌集を出すことになったんです。時代ですね。この時の歌がこれです。
〈一尺の雷魚を裂きて冷冷と夜のくりやに水流すなり〉」
「結婚して12年。夫と義父母の住む家を出て一人暮らしを始めました」
──結婚に歌集の出版と、順風満帆です。
「その後も安保闘争のデモに行ったり、いろいろあったけれど、そうね、忙しい日々でした。でも順風満帆とは言い難いですね」
──何かあったのですか。
「結婚して12年めのことです。お舅さんにもお姑さんにも優しくしてもらっていました。夫の岩田に対しても不満はありませんでした。でも、ここでは自分の仕事ができない、と思ってしまったのです。義父母と一緒だと、どうしても自由な時間が減っていく。私には勉強する時間と、物を書く場所が必要でした。それで、あらかじめ住むアパートを決め、下着や洋服、通帳を風呂敷に包んで準備を整えました。そしてある晩、“私はこの家にいられませんので”と頭を下げて、家を出ました。ええ突然です」
──岩田さんは反対しなかったのですか。
「反対するもなにも内緒でしたから。相談したら反対されるに決まっています。この時、岩田はそばにいましたが、びっくり仰天していました。離婚? されたら仕方ないと思っていました」
──大きな決断です。どうなりましたか。
「当時はどちらも教員でしたから、職場に聞けば、どこに住んでいるかわかります。そのうち岩田が私の住む荻窪のアパートを訪ねてきました。1週間に一度泊まりに来るようになり、次第に、ふたりで暮らすようになりました。そのあと、殺人事件が起こったといういわゆる事故物件の公団アパートにふたりで引っ越すのですが、その話はいいわね。私は鈍感なので、そんなことは気にならないの」
──それにしても大胆な行動です。
「やりたいことをやるには、何かが犠牲になってもしょうがない、と思っているのかもしれませんね」
──どういうことでしょう。
「私の実母は結核で、ずっと病院に入院していました。病気がうつるから、と会わせてもらえない。私は父とも離れ、ずっと母方の祖母に育てられていました。実母は小学校に上がる直前に亡くなるのですが、その3年後、父が再婚します。それで継母が、挨拶に来たんだけど、それが素敵なの。美しい金紗の着物に綺麗な丸髷。父と継母は高田馬場に住んでいましたが、祖母の住んでいた江古田と較べると都会でしょ? いろいろなものが素敵に見えてきて、小学校3年の春、祖母に宣言するんです。“あの新しいお母さんと住みます”って。それで鞄に教科書を詰め始めたから、祖母は泣きました。でも決心は変わらない。昔からやってることは同じね」
──三つ子の魂、なんとやら、ですね。
「結婚してからは、岩田の理解も大きかったでしょうね。同じ歌人でもありましたし、歌でも能でも、やりたいようにやらせてくれました。今やっている短歌結社『かりん』も、岩田と一緒に立ち上げたものです」
──その岩田さんも数年前に亡くなりました。
「平成29年の冬のことです。その時のことを詠んだ歌です。
〈ふたりゐてその一人ふと死にたれば検視の現場となるわが部屋は〉
浴室での心不全でした。夜中に警察が来て検視をしたりと、それは大変でした」
──やはり歌に詠まれるのですね。
「心のうちを、一つ首(もう)すのが短歌といったらいいかしら。私たちの中には『気分』があります。何となく好きとか、嫌いとか。こうした相対的な感情を、濃密表現できる言葉をさぐる魅力かしら」
──俳句との違いは何ですか。
「俳句というのは、五七五で切って、余韻を残します。短歌は心の動きを言葉にします。そこに人間の性(さが)が表れます。例えば百人一首にこんな歌があります。
〈長からむ心もしらず黒髪のみだれてけさは物をこそ思へ〉(待賢門院堀河)
末永く続く愛なのかどうか、考えもせずに思いのままに契った一夜だった、という恋の歌です。後半の七七で、黒髪と心の乱れを掛けて、そのように心乱れて思うのは、あなたの愛が本当かどうかだ、と詠んでいます」
──共感できる内容です。
「900年近く前の短歌ですが、ここには今に通ずる女性の情念がありますね。気分が濃密に歌われています。悩ましい人間の存在といったものが滲み出ていますでしょ?」
「電車の中は社会そのもの。広告も乗客の言葉もすべて歌になる」
──短歌の面白さとは何でしょう。
「韻律といいますが、例えば短歌には、五七五七七という言葉のリズムがあります。この韻律に言葉がのった時、面白さが表れてきます。日本文化は五七五七七のような『型』を大切にしてきました。俳句も型なら、お能や歌舞伎も型。お花もお茶も型、相撲や柔道だってそう」
──型というと窮屈な印象も持ちます。
「自我とか個性とかを考えるとそう思うのかもしれないけれど、型にあわせることで、自己をいったんなくしてしまえばいいのです。型は砥石です。歌人はみな、自分の中に砥石を持っている」
──型は砥石、ですか。
「ええ、自分の中の砥石で磨くのよ、言葉を。言葉だけじゃないわね。型によって自己を研ぎ、磨いていく。型をどう生かしたか、ということこそ、大切なのです。いったんなくしたかにみえた自分──人間の質や存在といったものが、型を通してまた出てくるのです」
──歌はどんな時に作っているのですか。
「私の場合は、寝床に入ってからが本番です。横になったほうが、精神が解放されるのね。枕元にノートとペンを用意して、思いついた短歌を記していきます。夜の11時、12時頃から作り始めるのですが、深夜2時くらいじゃまだまだだめ。3時、4時までかかってやっと。七転八倒しながら生み出すこともあります。それでも次の日は7時台に起きて、一日が始まります。これが私の変わらぬ生活です」
──コロナ禍で生活は変わりませんでしたか。
「変わりましたね。コロナですっかり生活そのものがなくなりました。それ以前は、講演や歌会などいろいろあって休みが取れず、週に1日休日があればいいほうでした。でも、忙しいほうが生きている気がするわね。歌壇の選評のため、月に2回、東京・築地の朝日新聞社まで電車で通っていましたが、それも楽しみのひとつでした」
──電車で通われているのですか。
「電車の中は社会そのもの。前に立つ人のくたびれた靴や転職の広告さえも歌になる。乗客の言葉が耳に入ってくればそれも刺激になります。とにかく体を動かしているのが良いの。だから“コロナだから外出するな”といわれてはたと困ってしまった。この年になって初めて、忙しくない日々を送っているのかもしれませんね」
──今でも歌を詠み続けています。
「ええ、命が続く限り詠みますよ。だって日本語が好きなのですから。言葉とは何と素晴らしいものなのでしょう」
馬場あき子(ばば・あきこ)
昭和3年、東京生まれ。歌人。短歌結社「かりん」主宰。朝日歌壇選者。日本女子専門学校(現・昭和女子大学)国文科卒業。在学中の昭和22年、歌誌『まひる野』に参加し、窪田章一郎ろうに師事。同時期に能の喜多流宗家の喜多実に入門。夫は歌人の岩田正(故人)。歌集『葡萄唐草』で迢空賞、『歌説話の世界』で紫式部文学賞を受賞するなど受賞歴多数。文化功労者、旭日中綬章受章。令和3年、『馬場あき子全歌集』を刊行した。
※この記事は『サライ』本誌2022年4月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/宮地 工)