タケカワユキヒデ(歌手、作詞・作曲家)
─過去に作った約3000曲の中から埋もれたものを再発掘中─
「人生を時間軸で測ったことがない。過去に作った歌を歌えばその時間に戻れる」
──今年70歳になります。
「年齢を気にしたことはないですね。時間軸で人生を考えたことがないんです。だって今生きていることには、70年の歴史なんて全然関係ありませんから。いつも今、この瞬間を楽しんでいます」
──過去は振り返らない。
「振り返るというより、その瞬間にパッと戻る感じなんです。30歳の時に作った歌を歌えば、その時間に戻ることができる。過去をたどるのではなく、その瞬間に戻る感じかな」
──なぜ音楽の道に。
「父がTBSラジオの立ち上げ当時の編成局音楽部長で、その傍(かたわら)、音大で教えていました。母方の祖父がヴァイオリンを作っていて、それを贈ってくれたりしていたんです。7つ上の兄も3つ上の兄も何かしらの音楽をやっていました。音楽に溢れていた家でしたね。僕も自然に5歳の頃からヴァイオリンを習い始めました。一緒にソルフェージュ(読譜や聴音の基礎訓練)を教わっていたのですが、譜面を書けたのは大きかったと思いますね。だって初めて自分の曲を譜面に起こしたのが10歳の時でしたから」
──どんな曲だったんですか。
「漫画雑誌にね、自分の学校の校歌を紹介するコーナーがあったんです。誰かが投稿した校歌の歌詞をみて、それに曲をつけました。なんでそんなことしたんでしょうねぇ」
──初の作曲が他校の校歌。
「やってみたくなっちゃったんでしょうね。音楽的には、小学校に上がった頃から、アメリカンポップスが好きになりました。ニール・セダカに、ポール・アンカ。耳から入ってきた英語を、そのまま訳もわからず歌っていました。小学5年生の頃、すぐ上の兄貴の影響で、ビートルズにどっぷりはまりました。クラスの女の子に頼まれて、クラスの歌を作曲したのもこの頃ですね」
──ヴァイオリンはどこに。
「小学3年生の時に、ヴァイオリンの先生が引っ越してしまい、教室を移ったんですけどレベルが全然違った。それでも続けていたんですけど、中学校で野球部に入ったのをいいことに、両立できないからとヴァイオリンをやめました。でも音楽は熱中の度合いが高まっていました。ギターをやり始め、コードも自分で作ってましたからね」
──その頃からミュージシャンを志望した。
「そうじゃないんです。実はプロ野球選手になりたかった。だってわかりやすいでしょ? どうしたらプロになれるか道がハッキリしていますから。でもミュージシャンはどうなっていいかわからない。ただ、サラリーマンは無理だと思っていました。通知表にはいつも “協調性がない” と書かれていましたから」
──どういうことでしょう。
「例えば授業中に、先生が数学の問題を書き始めるでしょ? 書き終わる前に答えを口に出してしまう。あれは中学1年生の時かな。体育館で、怖い女性体育教師が “休め!” と号令をかけたんですけど、僕ね、寝転んじゃったんです。どちらも反抗してやったわけではなく、パッと思った通りに動いてしまっただけなんですが。でも、これじゃ会社で働けないよな、と思っていました。だからといってミュージシャンを目指したわけではありません。ただ、楽しかったんですよね、音楽が。当時はエレキギターが不良の象徴で、禁止されていたんですけど、それを破って、中学校の卒業式でビートルズをやったんです。拍手喝采でした。この時の高揚感が忘れられなくて、アメリカで一旗揚げようぜ、ということになりまして。高校2年生の時です」
「レコードを出したら一生安泰…と思ったら全然違った」
──大胆な提案です。
「ベトナム戦争の頃で、アメリカに行くのは船便でした。内心、行っても成算はないなと思っていたんですけど、中心メンバーなので言い出せない。そうしたら船のチケットを買う段階で、窓口のお姉さんに売れないと言われてしまった。そりゃそうですよね、バンド全員、高校生なんだから。願ってもない状況で、“じゃあ取りやめだね” と言えばいいのに、僕、弁が立つから弁護士になれと言われていたくらいで、口は達者なんです。窓口のお姉さんを説得してしまった。行きたくないのに」
──ではアメリカに?
「みんな高校生ですからね。結局、アメリカ行きは流れるんですが、将来に困っている息子を見かねたんでしょうね。父が “藝大に行け!” と言う。もちろん簡単に行けるはずもなく、1年目は不合格。別の大学で仮面浪人をしている間に、もう、これ以上クラシックを勉強するのは時間の無駄だと思いまして。その頃には、もう、英語詞のオリジナルでこれはいけると思っていた曲が100曲ぐらいあったし、素人が参加できるラジオ番組やテレビ番組に時々出たり、自分でコンサートをやって、喜ばれたりしていました」
──英語にこだわった。
「英語で歌うことと、曲を作ることには自信があったんです。でも、英語で歌詞を書くことには、今ひとつ自信がない。それで、大学を受験し直すのだったら、英語をちゃんと学び直せるところがいい、と思って、それで東京外国語大学に進みました」
──いよいよ音楽に本腰ですね。
「大学にいる間に音楽で結果が出なかったら、やめようと思っていました。でもね、そう決意しながら、大学に行った初日に教務課を訪ねて、質問しているんです。“大学って何年いられるんですか?” って。音楽に未練たらたらでしょ? 4年間で結果が出ない時のことを考えてる。教務課によれば、休学と復学を繰り返したら、11年いられるという。まさか本当に、11年在籍するとは思っていませんでしたが」
──在学中の昭和50年のデビューです。
「22歳の冬でした。レコードを出したら一生安泰だと思ったんですけどね、全然違いました(笑)。このあと、ゴダイゴの結成、結婚……と怒濤のような日々が過ぎていきます。CMの曲も多く手掛けましたし、映画音楽もやった。でもレコードが売れなかったんです。このままじゃ解散だよね、と言っていたところに舞い込んできたのが、テレビドラマ『西遊記』(日本テレビ系)の主題歌でした」
──『ガンダーラ』ですね。
「初めて、日本語で歌ったシングル曲でした。これがヒットして、ようやくゴダイゴが世間に認知されました。歌番組にも何回も出演しましたが、どうにも日本語の歌詞を覚えられない。よく間違えていました。デビューした時に、一度くらい “キャーッ” と言われたいねとメンバーと話してたんですが、この時それが実現しました。でも僕を含めて子持ちがふたりでほとんどが妻帯者というバンドでしたが」
──昭和60年に一度、解散します。
「そのあとは作曲家をしていたのですが、毎年ね、300曲作っていたんです。ほぼ1日1曲ペースです。光GENJIや松田聖子さんなど、いろんな方に提供しました。いい曲ばかりなんですけどねぇ。でもヒットしなければ捨てられる運命です。3〜4年やっていて、だんだん虚しくなっていた。そんな時に子どもに言われたんです。“ただ家で歌って遊んでるだけじゃん” って。それでね、こりゃ何かをしているところを見せなければと思って、突然 “オレはタレントになる!” と宣言しました」
──司会やコメンテーターをされています。
「いろんなバラエティ番組に出始めると、ライブ出演のお誘いとかも増えてきまして、また自分のコンサートを開くようになりました。ゴダイゴも再始動して(平成11年に再結成、平成18年に恒久的再始動)、今も一緒に活動しています」
「作曲家として考えると、今がいちばん楽しいですね」
──現在の活動を教えてください。
「ゴダイゴの活動をしつつも、ソロでのライブを頻繁に行なっています。今積極的にやっているのが、自分の作った歌の再発掘なんです。作りっぱなしでデモテープに吹き込んだだけの歌が大量にあります。提供を含めると全部で3000曲作ってますから。それを聴き直して──どれもなかなかいい歌なんですけど、それを歌詞と譜面に起こしています。おかしいでしょ? 自分で歌っている英語なのに、何を言っているのかわからないところがあって、英語のできる娘に聴いてもらって、歌詞を蘇らせているんです。そういう曲たちを『僕ソン(僕のソングブック)』というライブシリーズで、披露しています」
──ライブで初めて人前で歌う曲もある。
「そうなんです。しかも普通、ライブのツアーというのは、同じ曲のセットで回るんですが、僕の場合は、毎回違う。しかも1日2回ライブをすることがあって──これだけで相当おかしいことですが、同日のライブであっても中身が違います。だからやるたびにレパートリーが増えていきますし、ライブも毎回新鮮です。ライブ中は、歌詞やコードを入れ込んだiPad(アイパッド)を目の前に置いて、カンペ(カンニング・ペーパー)にしているんです」
──コロナ禍は大変だったのでは?
「ゴダイゴのヒット曲に『ビューティフル・ネーム』があるんですが、あれを会場のお客さんと一緒に全力で熱唱するというのが、好評だったんです。鉄板の構成だったのですが、コロナでそれが奪われてしまいました。コンサート自体も中止が続きました。それで、配信コンサートを始めたのですが、これがね、面白いんです。自分でパソコンや通信の環境を整えたり、ソフトを導入したり、機材を買ってきたり。こういうこと、好きなんでしょうね。ライブでも自分の機材を持ち込んで、音響のセッティングなどをしています。ゴダイゴのメンバーとも、別々の場所から同時セッションをしました。こういうことが、技術的に可能になっているのが今の時代です。最近のライブでは、実際にお客さんを入れながら、同時に配信をしています」
──むしろ楽しんでいますね。
「これまで実現できなかったことが、できてしまうんです。面白くてしかたがない。音楽もそうなんです。今までは、時代ごとに音楽の流行があって、どうしてもそれに縛られていました。曲を出して受け入れられなかったらしょうがないですし、出す段階でプロデューサーにはねられてしまう」
──ところが今は違う。
「例えば過去の曲であっても、今の音楽としてネット上で視聴できます。だって聴いている人はいちいち、何年に制作したかなんて気にしていませんから。音楽として等価なんです。ようは、目の前のテーブルの上にありとあらゆる音楽や音の素材が乗っていて、今日はこれで楽しもうかな、と自由な選択ができるようになったということです。楽器の音も、自分の思ったとおりに機械で出せますからね。音に妥協しなくてよくなった。作曲家として考えると、今がいちばん楽しいですね」
──引退を考えたことはありますか。
「過去を、過去の出来事として懐かしんだこともありませんし、未来のことを計画したこともありません。僕にとって大事なのは、いつも目の前にある今です。今をどう楽しむか、ということが常にテーマです。だから新しい曲も作り続けますし、歌い続けていたい。肉体的な問題で、歌えなくなる日は来るかもしれませんが、それはその時に考えます。もし元気なら? 80歳になっても90歳になっても、歌い続けているでしょうね。だってそれが楽しいことなんですから」
タケカワユキヒデ
昭和27年10月22日、埼玉県生まれ。東京外国語大学英米語学科を11年かけて卒業。在学中の昭和50年にソロデビュー、翌51年にゴダイゴを結成。『ガンダーラ』『銀河鉄道999(The Galaxy Express 999)』などヒット曲多数。アルバムに『僕のソングブック 弾き語りスペシャルライブCD』など。今年、さいたま市教育委員会の委員に就任。https://www.takekawayukihide.com/
※この記事は『サライ』本誌2022年10月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/宮地 工)