はじめに-池田恒興とはどんな人物だったのか?
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する池田恒興(いけだ・つねおき、演:堀井新太)は、織田信長(演:小栗旬)の古参家臣として各地を転戦し、本能寺の変後は羽柴秀吉(演:池松壮亮)を支えた武将です。生母が信長の乳母を務めたことから、恒興は信長と乳兄弟に近い間柄だったとされます。そのため、小姓として信長に仕えるようになった際も、一族に等しい厚遇を受けていたそうです。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで功を挙げ、その後も荒木村重(あらき・むらしげ、演:トータス松本)の反乱鎮圧などで活躍。本能寺の変後には山崎の戦いで秀吉とともに明智光秀(演:要潤)を破り、織田家の宿老の一人となりました。
しかし、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、膠着した戦局を動かすため、徳川家康(演:松下洸平)の本拠である三河(現在の愛知県東部)岡崎への奇襲を提案。その作戦の途中、長久手で徳川軍と激突し、嫡男とともに命を落とします。
この記事では、信長と秀吉という二人の天下人に仕えた池田恒興の生涯をたどります。
『豊臣兄弟!』では、山崎の戦い後、織田家の政務を担う4人の宿老の一角を担う人物として描かれます。

池田恒興が生きた時代
池田恒興が生きたのは、織田信長が尾張(現在の愛知県西半部)から勢力を伸ばして天下統一に迫り、その死後、羽柴秀吉が政権の主導権を握っていった時代です。
信長の家臣たちは、合戦での功績によって城や領地を与えられ、各地の支配を任されました。恒興も、桶狭間の戦いから荒木村重の討伐まで、信長の主要な戦いに参加し、尾張の一武将から摂津(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)を任される有力者へと成長します。
ところが、天正10年(1582)の本能寺の変で信長が急死すると、織田家では後継者と遺領をめぐる争いが始まりました。恒興は秀吉に味方し、山崎の戦い、清洲会議、賤ヶ岳の戦いを経て、秀吉の勢力拡大を支えます。
その一方、信長の次男・織田信雄(おだ・のぶかつ)と徳川家康が秀吉に対抗すると、恒興はどちらに味方するかという重大な選択を迫られました。最終的に秀吉を選んだ恒興は、小牧・長久手の戦いで生涯最後の戦いに臨むことになります。
池田恒興の足跡と主な出来事
池田恒興は、天文5年(1536)に生まれ、天正12年(1584)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
信長の乳母の子として生まれる
池田恒興は、天文5年(1536)、尾張に生まれました。父は池田恒利、母は池田氏の娘で、のちに養徳院と呼ばれた女性です。
養徳院は織田信長の乳母を務めました。そのため恒興は、幼いころから信長の近くにあり、乳兄弟に近い間柄だったと考えられています。父の恒利が浪人していた時期に、母が信長の乳母となった縁から、恒興も織田家に仕えるようになったとされます。

通称は勝三郎(しょうざぶろう)で、紀伊守を称しました。剃髪後は勝入(しょうにゅう)と号しています。
桶狭間の戦いで功を挙げる
恒興は信長に仕え、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで功績を挙げました。桶狭間の戦いは、尾張へ侵攻した今川義元の大軍を、信長が破ったことで知られる戦いです。

『日本大百科全書』によれば、元亀元年(1570)には尾張国犬山城を与えられました。その後も信長の各地の征服戦に従い、織田家中で着実に地位を高めていきます。
母を通じた幼少期からの縁に加え、長年にわたる軍功も、恒興が信長から重く用いられた理由だったのでしょう。
荒木村重の反乱鎮圧で活躍する
天正6年(1578)、信長の重臣だった荒木村重が反旗を翻しました。村重は摂津国有岡城に籠もり、織田軍に抵抗します。
恒興はこの反乱の鎮圧に加わり、天正8年(1580)には子の元助(もとすけ)とともに、村重方の拠点である花隈(はなくま)城を攻略しました。
この功績によって、恒興は摂津国有岡の地を与えられます。『日本大百科全書』では、有馬・尼崎・花隈の諸城も与えられたとされています。

さらに、高山氏・中川氏・安部氏・塩川氏・伊丹衆などを与力として付けられ、摂津の軍勢を率いる立場となりました。天正9年(1581)には、羽柴秀吉が進めていた因幡(現在の鳥取県東半部)鳥取城攻めの支援も命じられています。
本能寺の変後、秀吉とともに光秀を討つ
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれました。

当時、中国地方で毛利氏と戦っていた羽柴秀吉は、急いで軍勢を返し、光秀との決戦に向かいます。恒興も秀吉に合流し、山崎の戦いで光秀軍と戦いました。
山崎の戦いで秀吉方が勝利すると、恒興は柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀らとともに、織田家の宿老に列します。諸将へ所領を与える文書に連署し、京都の施政にも関わりました。
また、織田家の後継者と領地の分配を話し合った清洲会議にも参加しています。会議後、恒興父子は大坂・尼崎・兵庫など、摂津国内で12万石余を領したとされ、恒興は大坂城に入りました。
長年信長に仕えた恒興は、信長の死後も織田家の行方を決める中心人物の一人となったのです。
賤ヶ岳の戦いで秀吉に味方する
本能寺の変後、織田家の主導権をめぐって秀吉と柴田勝家の対立が深まります。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで、恒興は秀吉方に加わりました。戦いは秀吉方の勝利に終わり、勝家と結んでいた織田信孝(おだ・のぶたか)も滅びます。

恒興は大坂を秀吉に譲り、信孝の旧領だった美濃(現在の岐阜県南部)13万石を与えられました。そして美濃大垣へ移り、長男の元助を岐阜に置きます。
秀吉にとって、大坂は政権の中心となる重要な場所でした。そこを恒興から引き継いだことは、秀吉が天下人へ進む上で大きな意味を持ちます。一方の恒興も、美濃13万石の大名となり、秀吉政権を支える重臣として地位を固めました。
美濃へ入った後には、清水城主の稲葉一鉄(いなば・いってつ)との間で領地の境界争いが起きましたが、同年11月、秀吉の裁定によって和解しています。
信雄と秀吉の双方から誘われる
天正12年(1584)、羽柴秀吉と織田信雄の関係が悪化しました。信雄は徳川家康の支援を求め、秀吉と断交します。
美濃を領していた恒興や森長可(もり・ながよし)は、秀吉と信雄の双方から味方になるよう誘いを受けました。信長以来の関係を考えれば、信長の子である信雄に味方する選択肢もあったはずです。

しかし、恒興は秀吉方を選びました。
信長の死後、山崎や賤ヶ岳で秀吉と行動をともにし、美濃13万石を与えられた恒興にとって、秀吉との結びつきはすでに強いものとなっていたのでしょう。
犬山城を攻略し、秀吉軍を迎える
信雄と家康は清洲で会い、尾張の小牧山に陣を構えました。これに対し、恒興と元助父子は、信雄方の拠点だった犬山城を攻略します。
天正12年(1584)3月28日には秀吉も東へ進み、犬山城に入りました。その後、楽田まで陣を進めます。
しかし、家康が守る小牧山の陣地は堅く、秀吉軍は容易に攻め崩すことができませんでした。両軍が正面からにらみ合う中、戦線は次第に膠着していきます。
この状況を変えるため、恒興は大胆な作戦を提案しました。それが、家康の本拠である三河岡崎を攻め、背後を突く奇襲作戦です。

三河岡崎への奇襲を献策する
恒興の作戦は、秀吉軍の一部をひそかに三河へ進ませ、手薄になった岡崎を攻めるというものでした。一般に「三河中入り」と呼ばれる作戦です。
総大将には、秀吉の甥である羽柴秀次が立ちました。その軍勢には堀秀政(ほり・ひでまさ)、恒興と元助父子、恒興の娘婿である森長可らが加わります。
小牧山で家康と正面から向き合うのではなく、その本拠を脅かして家康軍を動かそうとしたのでしょう。戦線の膠着を打開するという点では、思い切った策でした。
しかし、この進軍は家康方に察知されます。家康は素早く軍を動かし、岡崎へ向かう秀吉方の軍勢を追撃しました。
長久手で元助・森長可とともに戦死する
天正12年(1584)4月9日、秀吉方と徳川方は長久手で激突しました。

徳川軍の攻撃を受け、先行していた羽柴秀次の軍勢は崩れます。堀秀政は徳川方の追撃部隊を一度は退けましたが、恒興や森長可の部隊は長久手で家康の本隊と戦うことになりました。
激しい戦いの末、恒興は長男の元助とともに戦死します。娘婿の森長可も、この戦いで命を落としました。恒興は49歳でした。
自ら提案した三河奇襲策は、家康の素早い対応によって逆に迎撃され、恒興自身の最期につながりました。秀吉に味方して織田家の宿老から美濃の大名へと上りつめた恒興は、その秀吉のために戦った長久手の地で生涯を閉じたのです。

長久手古戦場にある塚名は、恒興の法名「勝入斎」に因んでいる。
石碑は明治24年(1891)に恒興の子孫が建てたもの。
まとめ
恒興の生涯は、信長の古参家臣が、その死後に秀吉を新たな主導者として選び取っていく過程を象徴しています。最後の作戦は成功しませんでしたが、膠着した戦局を打開しようと自ら危険な軍事行動に加わった姿からは、長年戦場を生きた武将らしい決断力と気概が感じられます。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











