はじめに-「賤ヶ岳の戦い」とはどんな戦いだったのか
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いとは、天正11年(1583)に、豊臣秀吉が織田家の宿老・柴田勝家を北近江の賤ヶ岳で破った戦いです。
本能寺の変で織田信長が亡くなった後、主君の敵を討ったことで存在感を高めた秀吉とそれに反発する勝家といった家臣との対立が表面化。信長の三男・信孝や重臣・滝川一益も反秀吉の立場を取り、秀吉に対して兵を挙げるも敗北してしまいます。
この戦いで、秀吉は信長の後継者としての地位を確立。戦後は大坂城建設や関白就任など、政権の基盤を固めていくことになります。
目次
はじめに-「賤ヶ岳の戦い」とはどんな戦いだったのか
「賤ヶ岳の戦い」はなぜ起こったのか
関わった人物
この戦いの内容と結果
「賤ヶ岳の戦い」の後
まとめ
「賤ヶ岳の戦い」はなぜ起こったのか
天正10年(1582)6月、本能寺の変で織田信長が亡くなります。これによって、信長の後継者を誰にするかが話し合われることになりました(清洲会議)。
清洲会議では、信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝が争い、重臣の柴田勝家は信孝を推しました。しかし、秀吉は信雄と信孝のいずれにも反対し、長男・織田信忠の遺児である三法師(織田秀信)を推薦。主君の敵である明智光秀を討ったという功績のために発言力が強く、さらには丹羽長秀の賛同もあり、最終的に三法師が後継者となりました。
その後、勝家は政権の中心から遠ざけられ、さらには大徳寺で催された信長の葬儀にも出席できないよう仕向けられてしまいます。存在感を増し、自分を排除する秀吉に反感を強めていくように。
それは信長の後継者に指名されることのなかった信孝や滝川一益も同じでした。そこで、3者は反秀吉という立場の一致から次第につながりを強化していきます。信孝は勝家との絆を深めるため、お市の方の再嫁を斡旋。秀吉との交戦はもはや時間の問題になっていました。
そして同じ年の12月、秀吉が勝家の城である長浜城を攻撃したことで、戦いの火蓋が切られたのです。
関わった人物
次に、賤ヶ岳の戦いにおける主要な人物について紹介します。
豊臣方
・豊臣秀吉
主君・信長の敵である明智光秀を討ったことで、政権内部で存在感を高めました。信長の後継者に三法師を推しながらも、自身が天下人の後継者になろうとします。
柴田方
・柴田勝家
織田家の宿老。本能寺の変の際には、越前にいたために光秀追討に遅れてしまい、主導権を秀吉に奪われます。信長の後継者に推した信孝の擁立にも失敗し、政権の中心から自分を排除しようとする秀吉に反感を募らせていくことに。
・織田信孝
信長の三男。信長の後継者になれませんでした。政権で存在感を増し、織田家を凌ぐ勢いの秀吉に反発し、勝家に接近します。
・滝川一益
勝家と同じく織田家の重臣。信長の後継者争いでは秀吉に遅れを取ります。信長の葬儀に参列できないようにさせられるなどして、秀吉への不信感を募らせていくことに。そして、勝家・信孝と組むことを選びます。
【「賤ヶ岳の戦い」の結果は? 次ページに続きます】